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これだから経済学は使えない。そもそも市場は、格差拡大を促す仕組み。「効率的な資源の分配」は必ずしも実現しない。

経済学は使えないシリーズ一覧

 

 

・余剰と豊かさはあまり関係ない(効用はスカラー量で表現できるものではないし、余剰と比例するものでもない)。総余剰の最大化は豊かさの最大化ではない。

・市場は、(財の価格が高いところから少しづつ下がるような場合にはその効果が緩和されるが、)基本的には、安く提供する者と高く買うものを優遇する。高く買う用意がある人と高くしか売れない人、安くしか買わない人と安くても売る人をマッチングするのが、少なくとも短期間では取引量を最大化する(競争市場がやっているのは最も取引量が減る選択だ)。右肩上がりの供給曲線と右肩下がりの需要曲線を仮定し(経済学では標準)、総余剰を最大化する取引を行うと、取引量が最小化され、利益を得られる人の数もおおむね最小化される(格差拡大)。

・需要曲線は所得分布に強く依存する。所得格差の大きい社会では、供給曲線の形を同じと仮定する場合、財の取引量は少ない。一方で、金持ちは同じ商品にも高い金額を支払う用意があるので、消費者余剰は大きくなる。この消費者余剰は、消費者の”お得感”とあまり関係がないので、消費者余剰が大きいほうが良いといった理屈は、”お得感”とは違う何かを追い求めている

生産者余剰は、完全競争市場を仮定しなければ解釈することすらできない概念である。生産者余剰は、生産者の”お得感”とあまり関係がないので、生産者余剰が大きいほうが良いといった理屈は、”お得感”とは違う何かを追い求めている

・多くの分野では、ある程度の生産量まで、規模の経済が存在する。そのような分野では、寡占や独占が当たり前である(一種の格差)。寡占や独占が起こるのは、純粋にそれらが高い生産効率を示すからだ。

 

 

格差の存在が悪いとは思わない。市場をなくすべきだとも思わない。むしろ、経済成長を促す仕組みを採用しようとするとき、必ず発生するものだったのだろう。ただ、市場が生産や分配に平等なを提供しているというのは嘘だし、効率的な資源の分配は必ずしも実現しない。

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これだから経済学は使えない。需給均衡と余剰について

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この記事では、「完全競争市場においては、需要曲線と供給曲線を引いて、均衡点で価格と取引量が決まる」「寡占・独占の市場においては、限界収入と限界費用が均衡点を作り、価格と取引量が決まる」などといった言説の理論的な問題点と、実用上の不能さを指摘する。

 

・需要曲線も、供給曲線も、仮に観測できたとしても、時間の経過とともに変化するものなので、観測結果に基づく議論はすぐに役に立たなくなる。寡占or独占市場では、限界費用と限界収入の均衡点を起点に考えるようだが、上記と同じことがいえる。

・生産者がが規模の経済を強く効かせる場合、無数の供給者がいる場合よりも少数の生産者が寡占or独占するほうが、採算がとれる単価がかなり安くなる。経済主体一つ当たりの生産量増加に伴って限界費用は下がり続け、供給曲線は右肩下がりになる可能性もある。

・生産量の増加に伴って限界費用が下がる場合、完全競争市場でしか生産者余剰を考える意味はない。

・そもそも需要曲線が右肩下がりになる保証はない。「高いから買う」という種類の需要は存在する。

・消費者余剰の解釈について。消費者にとっての「お得感の総量」と比例するものではない。ある程度は関係するだろうが、それは断じて強く相関するものではない。

・生産者余剰は、完全競争市場というフィクションの上でなら、消費者余剰と「お得感の総量」くらいの関係はある。しかし、普通は完全競争市場は実現しないので、生産量増加に伴って限界費用が下がる産業分野では、生産者余剰は生産者と関係ない概念である。

・短期的な分析に限っても、余剰が富の基準にならない以上、自由貿易が総余剰を拡大するからと言って、自由貿易が富を増やすとは限らない

・供給曲線や限界費用曲線は機会費用を含めた生産総費用を想定しているはず。しかし現実には、機会費用の計算などという難しすぎる意思決定をする経済主体はほとんどなく、機会費用を除いた生産総費用に利潤マージンを上乗せるようにして価格設定するのが普通なので、価格は限界費用と限界収入のバランスだけで決まるものではない。限界収入を考えるにはあらかじめ需要曲線を知らなければならず、約束事ではない全ての事象の期待値分布を正確に予測できない我々人類には、限界収入を正確に算出することなどできない。在庫処分などの理由で一気に価格を下げることもある。現実的な価格設定についてはこちらの記事で説明した。

・供給曲線の3つの仮定

①企業は、短期における純収益の最大化をはかる

②(完全競争市場において、)企業は価格受容者である

③一生産者にとっては、(少なくとも通常の生産量の近辺で)限界費用逓増の法則が成り立つ。平均費用は生産量に対してU字あるいは右肩上がり。

は、少なくとも工業分野では、いずれも一般には成り立たない。多くのサービス業でも成り立たない。③に関してはむしろ、限界費用逓増どころか、一定あるいは逓減すらよくある。(大口の顧客が安い単価で仕入れたり、生産量を増やすために資本を追加したとき「資本に費やした費用当たりの生産量」が増えたり。)

 

 

 

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これだから経済学は使えない。完全競争市場なんてないし、仮にあったとしても非効率。(仮)

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経済学において、供給曲線が右肩上がりとされる根本的な理由は、それを認めないと既存の理論が大ダメージを負うからだ。既存の理論が持っている深刻な問題点は複数あるが、少なくとも以下の2つが含まれるであろう。私が短時間考えて思いついたものだから、頭のいい人が時間をかけて考え出すと、もっと沢山あると思う。

・完全競争市場においては、均衡する価格が先にあって、現状の価格を見た生産者がその時々の生産量を決める、という妄想を信じている

・経済学(の主流派)が信じるような限界費用逓増の想定は、たいてい成り立たない。生産者1つ当たりの生産量増加とともに限界費用が下がる場合、唯一無二の生産者が供給する体制を作ることで、単位生産量当たりの生産費用を最も低くできる。限界費用逓減の場合、供給曲線は右肩下がりだ。限界費用が提言する場合、総余剰の最大化を理由に独占が正当化され、「完全競争市場が(総余剰という名の)富を最大化する」「完全自由競争が価格を下げるor価格を安定させることで、消費者の利益になる」と主張できなくなる。加えて供給曲線が需要曲線よりも急激な右肩下がりになって、均衡”点”を考えることができなくなる可能性もある。これらのような理由から、経済学のメインストリームは、自身の教科書レベルの議論における論理破綻を無視すべく、”生産量増加とともに限界費用が下がる可能性”を受け入れない

現実では、生産量を増やすと限界費用が下がり、供給曲線右肩下がりになることも多い。例えば、無形資産に強く依存したデジタル系・プラットフォーム系のサービスは、生産量を増やせば増やすほど生産量当たりの生産費用が下がっていくのが一般的だ。

 

この世界には、量産することで単価を安く生産できる場合が存在する。検索エンジン・ネット店舗・水道・電気などである。ついでに言えば、買い手側も、生産者が少ないほうが、どこから購入するかという意思決定が楽になる。市場は非市場的な仕組みによって支えられていて、プレイヤーが少ないほどその市場自体の運用コストは下がる。もし仮に「費用対効果の最大化」「資源生産性の最大化」「総余剰の最大化」「資源や財を過不足なく配分すること」などが大事だというのであれば、たいていの分野で、寡占に近い状態もしくは独占が、最も効率的ということになるだろう。費用対効果がそんなに大事か?総余剰の最大化がそんなに大事か?って話だけど。そもそも、「総余剰の最大化がみんなを豊かにする」という幻想を本気で信じられるのか?

 

 

完全競争市場が「効率的」とは限らないことは分かった。そもそも論としてよく考えてみてほしい。完全競争市場って、具体的にどこにある?生産者が無数にある市場は、実は同質材を提供していないことに気づいただろうか?そこに地域的制約はないか?習慣や伝統や文化など、経路依存性による影響はないか?偽薬効果みたいな理由で差がついていたりはしないか?......本当に同質材を提供されている市場では、そもそも寡占や独占が普通であり、完全競争市場ではいられない。ついでに言うと、経済学上で同質財の例に出されている産業でさえ、本当に同質と呼べるかどうか分からないものがほとんどではないだろうか?よくよく考えてみてほしい。

本当に同質な財が複数の生産者から提供されるとき、量産して単位量当たりの生産費用を下げることが適応的となる。過激な競争と買収・合併あるいは倒産ラッシュの結果、寡占や独占が起こって当たり前なのだ。あえて強気に言わせてもらおう。

「完全競争市場なんてない!近似できる市場すらない!」

完全競争市場が存在せず、仮に存在していても効率的とは限らず、寡占や独占とともに限界費用逓減をもたらす可能性もあることで、経済学に深刻な問題が発生する。

・供給曲線は右肩下がりになりうる、その結果、需要曲線との交点で価格や量が決まるとの主張が、数多くの但し書きを必要とすることになる(そもそも交点が存在しない可能性もあるし、均衡の実現領域が点ではなくなる可能性もある、その他諸々)。寡占・独占市場の分析における限界費用と限界収入に関しても同様。

・均衡点が存在するかどうかもわからない(実現可能な平面領域があるなど)

・消費者余剰は「お得感の合計」に比例しない

・独占や寡占が起こり、限界費用が逓減する産業分野では、生産者余剰は生産者と関係ない概念である

などといったことだ。そこら辺の話は、これだから経済学は使えない。需給均衡と余剰について(仮) - 好奇心の横断歩道を創る!などで突っ込んでいる。

 

 

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これだから経済学は使えない。市場は非市場的な仕組みが支えている

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市場は非市場的な仕組みが支えている。取引にはルールがあってそれを守らせる何かしらの仕組みがなければならない。現代の市場が普及した国では、取引のルールを定め、秩序を守らせるものとして、法律があり、行政があり、司法がある。法律が市場のルールを規定し、行政がそれを守らせ、違反した疑いのある人には司法の裁きを下す、というモデルだ。

市場を機能させるための非市場的な仕組みは、立法・司法・行政(学校教育とか警察とか)だけではない。歴史・文化・習慣・道徳観などの影響が大きい。中でも重要なのは、現代だと、習慣と教育と科学技術投資だろう。

読み書きそろばんを国民が標準装備して初めて、現代先進国の制度が成立する。国家を成立させるために必要不可欠だからこそ”義務”教育なのだ。国家権力が健全な市場を支え、その市場の恩恵に授かっている国民には市場と国家権力を支える義務が課される。

現代国家は、科学や技術に対し、(賃金を含む)価格競争と無縁な環境と人間に研究費や開発費を出している。必要なインフラの多くを公的部門が主導で用意している。賢明な人間なら、国公立の大学や軍の研究機関などに使われる予算の大きさ、そしてその成果の大きさを認めるであろう。

 

市場は非市場的な仕組みに支えられて成立している。経済を理解したければ、市場の分析だけに熱中している場合ではない。経済を考えることは、文化・伝統・倫理観・宗教・習慣・法律・認知科学社会心理学進化心理学地政学生態学・歴史や考古学・統計学代数学情報科学・その他各種技術 の複合領域を考えることだ。多くの学問領域と矛盾なく接続しなければならないし、価値観の違う政策当局には異なる政策提言をしなければならないし、置かれている状況が異なる集団には異なるガイドラインを示す必要がある。

無駄に複雑で実用性のない方程式体系を論文にして有名雑誌に載せる一連の仕事は、経済学を発展(?)させることができる。が、心理学や考古学などから経済学と矛盾する情報が次々と出てきても、経済学者が経済学にしか興味を示ない現状においては、経済学は経済の理解のための道具になりえない。

 

 

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因子分析の直感的な解釈~~ものぐさ君がなんとなく分かったつもりになるためのメモ~~

※おそらく明確に間違った記述が含まれていると思われます。ご注意ください。私自身の勉強が進み次第、訂正や追記をしていく予定です。

 

難しいことをできるだけ避けて、直感的に因子分析を分かった気になりたい私のような横着者ために、因子分析の結果の解釈を説明を試みる。具体的な計算手順には触れない。行列の基本がわかる人向けかも。数学強者に言わせれば、下の説明は穴だらけだと思うが、目くじら立てないでほしい。因子分析の解釈に必要な厳密な説明を見つけたければ、”因子分析 数学”でググったり、それっぽい本を読んだりすればいいと思う。

 

 

概要、全体像

因子分析は普通、行列を使って説明される。

Z:観測変数を示す行列

A:因子負荷行列

F:共通因子行列

E:独自因子行列

このように変数を置いたときに、

ZAFE

となるA,F,Eの組み合わせの中から、解釈し易い”良い感じの組み合わせ”を選ぶのが、因子分析の基本だと思う。

共通因子の数をLと想定した場合、Z,EがM行N列、AがM行L列、FがL行M列の行列になる。

因子分析では、共通因子の数Lを分析者が主観で設定してみて、その時のA,F,Eの様子を観察する。共通因子の数を決める過程は、絶対的な手続きがあるわけではないので、あくまで分析者の意図が反映されているとみるべきだ。また、後で触れるが、共通因子の数以外の理由で、分析者の意図がA,F,Eに反映される。客観的に因果関係を探る方法だとは思わない方が良いと思う。

i行j列の成分をxijと表現するとき、

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である。本質的に、線形一次のモデルなのだ。事実が非線形な因果関係で結ばれていた場合、因子分析が客観的な因果関係を説明することはできない。

 

概要みたいなのはここまで。ここからは、少し詳しく細かく見ていく。

 

 

各行列について

これ以降、説明のために、一人当たりのアンケート質問数M、調査対象になった人数Nの場合を想定する。i=1,2,3,,,N   j=1,2,3,,,M となる。

 

観測変数Zの行列について

まず変数Zについて。Zは観測変数を表す行列。同じ列に属する行列の成分は、同じ人の情報を表し、同じ行に属する成分は同じ質問の情報を表す。それぞれの行に対して平均0,分散1になるように正規化する。

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Zの正規化は因子分析の準備段階で行うことだ。

 

 

因子行列FEについて

「観測する変数Zに影響を与える潜在的な原因」という設定を与えられているのが、共通因子行列Fと独自因子行列Eである。(Eを誤差と解釈するのは、おそらく不適切。)仮に因子分析の結果が真正の因果関係を表現できていた場合、FEはともに観測変数Zに影響を与える原因と対応する。

Eは独自因子と名乗るだけあって、一つの観測変数zijに影響を与える独自因子はeijだけである。eijは、一つの原因からの影響を表すのではなく、むしろ、複数の原因の影響を合成した結果だと解釈するべきだと思う。Eは行で平均が0になるという前提をとるらしい。

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Fは「複数の観測変数に対して影響を与える、観測されていない原因=共通因子」を想定している。Fの任意の列は、調査対象になった任意の人の持っている共通因子(遺伝や特定の経験の有無などを表す指標)である。Fの任意の行は、「任意の共通因子」の個人差を表す。Fはそれぞれの行で、平均0分散1に正規化される。

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各人が持つ特定の因子について、分布を正規化しているのだ。

 

 

因子負荷行列Aについて

続いて因子負荷行列Aについて。Aの行は、それぞれの共通因子が、特定の観測結果にどの程度影響を及ぼすかを表す。特定の質問の答えが因子から受ける影響の比重を表している、ということだ。aは0以上1以下の範囲の値をとる。Aの列は、特定の共通因子が各質問の答えにどの程度影響を与えるかを示す。因子負荷というネーミングセンス、すげぇよ。

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を共通性と呼び、共通因子で観測変数の分散の何%が説明できたかを示す、とされる。

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という性質もあるらしい。

 

因子分析の主観性

因子分析は、手元のデータを用いてその奥に隠された「原因」を自動的にあぶりだす魔法のような分析手法、ではない。我々詐欺師には、高尚な分析手法を使いこなしているフリをしながら、無知な人々をだます義務がある。

 

行列の性質上、

ZAFE

となるA,F,Eの組み合わせは無限にある。回転を表す行列Rを用いて、

ZAFEAR⁻¹RFEA’F’E

のように変形できるからだ。因子分析では、解釈しやすさを基準にして、いい感じのA’F’を分析結果として採用するのが普通らしい。

 

Fの行ベクトル同士が直交するという条件を付ける場合もある。(Fの行ベクトルの直行と、共通因子間の相関係数0は、同じ意味のはず。)直交因子分析などと呼ぶらしい。因子同士の影響が直交するという前提は非現実的なので、コンピュータの計算能力が高くなった最近では、直交因子分析を使うことも以前より少なくなっているらしい。

 

因子分析の実用例~~ビッグファイブ理論~~

性格心理学の世界で多用されるビッグファイブは、因子の数を5つに指定し、多くの人に対して「人の性格を表現する単語」がどの程度当てはまるかを質問で評価し、直交因子分析を行ったもの。A’F’の組み合わせのうち、因子負荷行列A’が小さい行列Aiを使って

A1 0   0   0   0

0   A2 0   0   0

0   0   A3 0   0

0   0   0   A4 0

0   0   0   0   A5

みたいに表現できるものを選んでいる。(小さい0行列は厳密には0行列ではない。) A’は5列。Aiは1列。性格を表す単語の任意のクラスターと、それ以外のクラスターの間に、相関がほとんど出ない。

 

 

因子分析を学べる資料

数学的に(厳密に?)因子分析を説明した情報源を、知ってる範囲でリンクしておく。私だって、書けるならこのくらいのハイクオリティで書きたい。

http://racco.mikeneko.jp/Kougi/10s/AS/AS12pr.pdf

http://cogpsy.educ.kyoto-u.ac.jp/personal/Kusumi/datasem13/masuda.pdf

『マンガでわかる統計学 因子分析編』|感想・レビュー - 読書メーター

ビッグファイブの5つの因子を、より細かく分割して使う習慣を提案します。記述的な性格分析として、その方が正確そうじゃないですか?

この記事を訪れた方は、「ビッグファイブくらい知ってるよ!性格を記述する方法だろ!」って感じかと想像します。そして多分、開放性が高い(あるいは好奇心旺盛というべきか?)人が多いのかな。まぁ、そうではなくても構いません。この記事の目的は、

私が「あまり一般的ではないが有用だ」と考える、ビッグファイブ理論の使い方を提案すること

です。具体的には、ビッグファイブの5つの因子それぞれを、もっと細かいサブグループに分割し、「BIG30」に焼き直します。

 

あと、どうでもいいのですが、私は「性格改善」みたいな発想が嫌いです。我々の社会では、「上手くいく」かどうかは、その人特有の性質(努力や工夫もここに含む)と周囲の環境の相互作用で決まっているからです。環境が変われば適応的な性質が変わる。進化論を持ち出すまでもなく、それが現実ですよね。性格そのものに良し悪しを定義することは、誰の得にもならないと思うのです。

ふぅ。

 

 

 

ビッグファイブ理論の復習

まずは、ビッグファイブ理論のおさらい。ビッグファイブの説明は、日本語の情報源だと、Wikipediaの情報が最も、詳しく・網羅的で・簡単にアクセスできる の3拍子がそろっていると思います。

ja.wikipedia.org

 

ビッグファイブ理論は、人の性格を記述するとき、以下に箇条書きする特徴を持ちます。

・5つの指標、開放性・誠実性・外向性・協調性・神経症傾向 を使う

・それぞれの指標は、人の性格を表す単語を5つのグループに分類し、各グループの単語の形容がどの程度当てはまるかを表したもの。(こんな書き方、正確ではないけど、許して)

・5つの指標は、その性格の原因(神経生理学的なこととか)と関係なく、あくまで性質を記述するために作られた

 

 

ファイブの問題意識

なぜBig4でもなくBig6でもなくBig5なのか?

...........指標は5つくらいが、「使いやすさ・手軽さ」と「性格の表現の厳密さ」の両立のための一般的な落としどころ、なのかもしれません。あるいは、ほかに理由があるのかも。

まあ何でもいいのです。この記事では、「使いやすさ・手軽さ」を多少犠牲にしてでも、より緻密に性格を表現することを提案します。それはなぜか?すぐに思いついた範囲で3つほど列挙してみます。頑張って考えたり探したりすれば、おそらくもっとたくさんの問題を指摘できそうです。

 

問題意識の例1

「ビッグファイブの各因子と○○の相関関係」みたいなのを議論する研究などを見ていると、「そんなこと調べて学術的に意味あるか?」って思うことが多いんですよね。例えば、外交的な人は赤い服を着る傾向にある、みたいな。一口に外交的といったって、社交的なことと赤い服に相関があるのか、自己主張の強さと赤い服に相関があるのか、それとも陽気さと赤い服に相関があるのか、そのすべてなのか、区別できないなら意味がないと思いませんか?5つの指標で性格を表現するというのは、あまりに大雑把すぎると思うのです。

 

問題意識の例2

ビッグファイブの分布のクラスターが4つになったみたいな話もありますが、5次元の分布をクラスターにするってのは、人の性格をクラスターにする場合、次元が小さすぎだと感じます。例えば、

神経症傾向と外向性が高い
開放性が低い

などと言われても、具体的な人物像がイメージできないんですよね。「気分の浮き沈みが激しくてメジャーな趣味を持ってるような人かな?」って程度にしか思い描けない。我々はサイキックでもなければメンタリストでもないので。

 

問題意識の例3

大雑把さによる弊害は、個人の性格の原因を探るときにもありそうです。例を上げましょう。外向性の原因の一つはドーパミンの影響の受けやすさだ、みたいな話がありますが、ドーパミンは同時に、衝動的な行動(誠実性の構成要素)や好奇心(開放性の構成要素)とも関係があることが指摘されています。ビッグファイブは明らかに、性格の原因の記述に向いていないんですよね。

その点、Big30を使えば、因果関係のかなり改善される可能性があります。ドーパミンの例だと、ここからは完全な作り話ですが、「外向性の中でも活動的or社交的かどうかだけにドーパミンの放出条件の閾値の影響が強くみられ」「誠実性の中でも衝動的か計画的かといった要素が、脳のどこそこの部位の細胞がもつ受容体の密度と関係し」「誠実性の中でも自己効力感や達成努力が、ドーパミンの生産量の多さと関係があり」「好奇心の強さは細胞外に放出されたドーパミンの回収速度と関係する」みたいなことが判明するかもしれません。繰り返しますが、作り話ですよ?誤解なきよう。

 

 

 

 

Big30の因子を列挙

ビッグファイブ (心理学) - Wikipediaにしたがって、開放性・誠実性・外向性・協調性・神経症傾向をそれぞれ6つの因子に分解します。ネーミングがWikipediaとは違ったりしますが、私が主観的に、「こっちの方が分かり易いよね?」って思った方向で変更しています。文句があるならWikiなり元ネタの論文なりを自分で当たりなさい。

Big30ってのは、この記事における言葉であって、一般的・慣習的な言葉ではありませんので。

 

元開放性

1,新しい経験への開放性:新しい経験をどの程度求めるか

2,芸術的興味:芸術的活動・創造的活動にどの程度興味があるか

3,情動性:自分の感情にどの程度自覚的か

4,想像力:空想的な意味の想像力がどの程度強いか

5,知的体験への開放性:新鮮に感じる情報・考え方・抽象的な概念への興味の強さ

6,組織からの個人的自由を重視する傾向:伝統や権力をどの程度重視するか

 

元誠実性

7,達成意欲:現状に満足している方か、目標を持ってその達成のために努力する方か

8,慎重さ:決断するときにどの程度慎重か

9,従順さ:規則や義務を守ろうとする傾向

10,秩序性:組織の必要性を感じたり組織のために行動する傾向

11,意思の持続性:難しいことやしんどいことに直面した時どの程度粘るか

12,自己効力感:工夫や努力次第できっとやり遂げられる、と(根拠が弱くても)信じる感覚の強さ

 

元外向性

13,活発さ:どの程度忙しい状態を好むか

14,自己主張の強さ:自己主張の強さ

15,陽気さ:楽しさをどの程度分かち合いたがるか

16,刺激希求性:リスクや五感への刺激の強さをどの程度求めるか

17,友好性:どの程度人と打ち解けやすいか、心許すことに満足するか

18,社交性:どの程度人と一緒にいることを求めるか

 

元協調性

19,利他的傾向:自分以外の人ために時間や労力を使うことに、どの程度満足するか

20,協働性:意見が対立する(しそうな)ときに、どの程度対立を避けたがるか

21,謙虚さ:自慢げか控え目か

22,道徳性:目的のために自分以外の人を犠牲にすることに、どの程度ためらうか

23,共感性:冷酷か親身になるか

24,信用性:人の善意をどの程度無条件に信じるか

 

神経症傾向

25,激情性:思い通りにいかなかったときに、どの程度激しく感情が高ぶるか

26,心配性:心配しがちな傾向

27,悲観的傾向:悲観的な傾向

28,快楽主義的傾向:欲望を強く感じたり退屈を嫌ったりする傾向

29,自意識の強さ:他人が自分をどう思うかを気にする傾向

30,傷つきやすさ:ストレスフルな状況でどの程度落ち着いているか

 

 

経済と景気の安定化を考える。景気変動のパターンとか、安定化の方法とか。

間違いや追加情報を引用先でも何でもいいからコメントしてくださると、これを書いた人が喜ぶかもしれない。ではでは。

 

 

◎不安定性の原因の、いくつかの説明

ケインズの、投資家や起業家の期待に基づく景気の不安定性

景気は総需要と総供給のバランスでおおむね決まっているという発想に基づく。

不確実な世界において、投資家や起業家が抱く期待の時間変化によって、投資需要が大きく時間変化する。投資需要が減ったタイミングで不況になり、投資需要が増えるタイミングで好況になるという発想と思われる。

詳しいことはよくわからない。私の勉強不足だ。ケインズの理屈は解釈がやたら難しくて。

一つだけ言えるのは、新古典派総合(あるいはオールドケインジアンと呼ぶべきか?)が導入し広めたIS-LM分析が、静学分析を採用したせいで、ケインズの重要な着想である「期待に起因する根本的な不確実性」の存在を無視したということだ。あと、IS-LM分析においては、マネーストック(あるいはマネーサプライ)が、政策当局が操作できる外生的な変数だ、という想定をとっているが、現実的とはいいがたい。

 

ミンスキーの不安定性の例

ミンスキーの説明する(金融)不安定性の説明は、その時代その場所における制度や習慣によって少しづつ異なったものになる。下に示すのは、その一例。

経済の安定した成長

→楽観的な期待が社会全体を満たす

→借り入れを伴う投資ブームの発生、需要の増加に伴う好景気

→投資資金調達のため(とは限らないかも)、規制をかいくぐる金融商品の発達。これは営利企業の純粋に営利目的な動き

→質の低い担保や金融構造の受け入れ、自己資本比率の低い(銀行を含む)企業の大量発生

→さらなる借り入れを伴う投資ブームと好景気

→インフレ率の上昇&中央銀行が金融機関向けの貸出の金利を引き上げたり、オーバーナイト金利目標を引き上げたりする

→金融機関が貸し渋りだし、融資の金利が上がる

金利の上昇や借換えを含む貸し渋りが、投資を減少させ、投資の減少が融資の担保になっている資産の価格を下げ、貸し渋りが一層進む

→資産の売却によって負債を返済しようとする企業の大量発生、倒産や失業の大量発生=不況

「安定が不安定性を生み出す」みたいなことを、ミンスキーはよく言ってたらしい。彼はまた、このような意味の言葉も残している。「経済の不安定性は、経済そのものの性質である」

ミンスキーのこのような言葉は、金融と資本主義の発展の歴史を理解していたからこそだろう。彼はミンスキー・モーメントでもっとも有名かもしれないが、金融や投資の不安定性のみならず、雇用の安定化のための制度も積極的に研究していたし、歴史上の様々な金融や経済を制度的側面から見てその性質について議論していた。制度派あるいは進化経済学などと呼ばれている研究者集団からの影響をかなり強く受けているように感じる。

 

現実の資本主義経済においては、長期にわたる大不況が生じることはまれである。主な理由は以下の2つがあげられる(当然だが、ほかにも複数の理由がある)。

理由①「大きな政府」が、大規模な赤字支出を通じて流動性の高い金融資産(国債や準備預金など)を民間に提供し、民間部門の信用創造に頼らずに、民間企業の利潤と投資を維持拡大できるようにする。政府は、不況時に民間比で多く支出&少なく徴税し、好況時に民間比で少なく支出&多く徴税する傾向があるので、「大きな政府」が総需要の変化を緩和し、経済の安定化を支えてきた。

理由②中央銀行が「最後の貸し手」として機能(債権を担保に準備金を貸し出す)し、(金融)資産価格と金融市場を安定化し,金融危機の発生を防いできた。

 

 

分配の変化(所得格差)に起因する不安定性

所得格差拡大

→大企業や富裕層の手元に膨大な余剰資金がたまる(&その他大勢の家計の資金不足)

→余剰資金を持つ個人や法人が不動産や株式などの金融資産を購入し、資産価格が上昇する & 低~中所得者層が消費水準維持のために借入れを拡大

→金融部門の新たな信用創造を伴う、投機目的の資産購入=資産バブル

流動性の低い資産と借入債務を大量に持つ経済主体の大量発生

→金融機関・企業が返済の可能性を疑いだす。何か重要なきっかけがある場合もあるし、うわさが広まる程度の場合もある

貸し渋り金利上昇

→債務返済のために資産を売る経済主体の大量発生

→資産価格の下落

債務不履行の経済主体の大量発生

→金融機関・企業の収益低下と、益々の貸し渋り&高金利

→資産バブルの崩壊(資産価格の下落)と同時に消費需要縮小=不況

 

 

ファンドなどの、規制対象にならない金融商品に起因する不安定性

好景気、あるいは景気の安定

→規制に引っかからない金融商品の発明や宣伝

→規制に引っかからない金融商品が家計や企業に普及

金融商品を持つ人の資産が流動性を下げる(預金や現金が減って金融商品が増える)

金融商品の市場価格が、何らかの理由で暴落

金融商品を持つ人の金融資産が減る

金融商品を持つ人の消費支出が減る

→不況

 

 

 

◎財政収支と不安定性・持続可能性

国内の民間の収支(貯蓄超過) = 対外収支(経常収支+資本収支) - 財政収支

である。民間経済がバブルを起こすとき、新規の借り入れと民需が拡大し、国内の民間の収支(貯蓄超過)がマイナスになるのが普通だ(経験則)。民需の拡大はたいてい輸入を増やし、対外収支もマイナスになるが、同時に財政収支がプラスになることが多い。実際、過去のバブル期と呼ばれる時期には、財政収支黒字になることが非常に多かった。数少ない財政収支黒字の時期の真ん中あたりでバブルが崩壊していたというのが、過去に何度も経験されてきたことだ。GDP規模が継続的に大きくなる経済では、恒常的な財政赤字こそ正常な状態である。

逆に歴史的な不況では、民間が債務の返済のために支出を控える。輸入が減って対外収支が黒字に傾くことが多く、財政収支は景気の下支えという意図的な要素も含め、赤字幅が大きくなるのが普通だ。

下の、明治から現在までの期間の財政支出の金額の推移を方対数グラフにした図で分かるように、10年以上好景気と呼べる時期には明らかに歳出と歳入の増加が著しく、10年以上不景気と呼ばれる時期は明らかに鈍い傾向にあった。対数をとるのは、グラフの傾きが財政支出の増加「率」と比例するから。ちゃんと解釈の必要性に迫られた意味ある表現だ。

f:id:rokaboNatttsu:20220322162434p:plain

歳入と歳出の推移 対数プロット
出典:

https://www.petitmonte.com/politics_economy_life/revenue_and_expenditure.html

ここで注意事項。このグラフを作ったデータは、一般会計で、特別会計を含まないようだ。さらには、歳入には公債(国債や地方債)の発行や償還や借り換えが含まれていると思われる。財政規模の変化率の参考には使えると思う。古い時代からの推移が見られるので使った。1980年以降、少なくとも名目値では、政府の歳出と歳入の伸びが鈍くなっているのがわかる。逆に、「戦前の戦争準備してそうな期間」と「戦後の高度経済成長期」は、歳出と歳入の伸びが早い。

IMFからのデータを使った、政府の支出と収入のグラフがこちら。本当は方対数にしたいところだが、財政収支(あるいは財政赤字)がマイナスになる以上、方対数グラフが使えないので、線形にしている。

1980~2019の一般政府の支出・収入・財政収支の推移 データの出どころ: 

Download entire World Economic Outlook database, April 2021

グラフの確かさの答え合わせといっては何だが、以下のリンク先でも、最近の日本の財政収支の推移をグラフにしてくださっているものがみられる。ありがたい。バブルの時期にはやはり、財政収支が黒字化していた。

ecodb.net

安定的な財政赤字は、民間に流動性の高い金融資産を提供し続けることを意味する。借り入れの拡大に全面的に頼らなくても、民間は需要を増加することができる。GDP比で財政赤字が小さすぎる場合、景気拡大のためには民間部門の負債拡大が必須になる。民間企業がよりシビアな債務の返済を迫られるようになるということだ。もちろん、財政赤字がいくら拡大しても、総需要が伸びない経済では、GDPは拡大しない。

「政府の純負債の拡大なしに、民間の純負債の拡大だけで資金需要をカバーした場合」は、特に民間(企業と家計)の所得格差拡大を伴うとき、長期的で継続的な経済成長が極めて難しく、経済は不安定である。一方で、「政府の純負債の拡大によって民間に金融資産が提供され続け、資金需要の一定割合をそれでカバーした場合」は、特に民間の所得格差が縮小するとき、長期的で継続的な経済成長が可能であり、経済が安定する可能性もある。

 


◎課税

消費税

所得に占める支出の割合に比例して、消費税は発生する。経験から見る限り、消費税はかなり安定した税収を示す。これは、社会全体の消費支出が中間層以下の支出の多くを占める必需品や大衆向けの商品の購入が消費の大部分を占めていて、この部分が所得の短期的な増減にあまり大きく影響を受けないということだと思う(別の言い方をすると、「消費税は実質付加価値に一定割合でかかる税金であり、国内で生産された付加価値の合計を表す指標であるGDPが短期的に大きく上下することがないため」)。景気の過熱を防いだり、冷え込みを軽減する力は弱い。それに加えて、価格設定において弱い立場にある経済主体が犠牲になりやすい税制なので、消費税そのものが倒産や失業を促す圧力になりやすい。

 

法人税

法人税に対しては私の知る限り主に二つの見解がある

・利潤に対する罰金であり、企業の投資支出や賃金上昇を促す

・価格交渉力が強い経済主体が負うべき税を、価格交渉力が弱い経済主体に押し付ける傾向にある。(大企業の法人税率が上がると、大企業が利潤を維持するために下請けのコストカットを進める、企業が法人税の支払い分人件費を削る、などといった具合)

といったものだ。どちらが支配的になるのかというのは、現場の経営陣がその時その地域の状況を見てどのような判断を下すかに決定的に依存するものではあるが、全体的な傾向を経験則として語るのであれば、現実は後者をとる。多くの実証研究がそれを示唆しているようだ法人税率を変化させたときに、価格転嫁を通じて誰の負担が実質増加したのかを調べた研究は、法人税率というパラメータを変化させる前後でありがちなパターンを抽出できる。多くの実証研究がこの方法をとっているはずだ。そしてこの方法で得られる結論は、新しく誕生する企業やその企業と取引する別の企業に法人税が与える影響には、適応できないかもしれない)法人税こちらの記事の③の意味での投資支出には(少なくとも直接)課税されることがないので、理屈の上では、生産力を伸ばすための投資支出(技術開発など)を抑制するものではないと思う。

景気が良いときに法人税収が増え、景気が悪いときは減るという、半景気循環的な機能を持つ点は、多くの人が合意するようだ(統計を見る限りそう見えるので当然の流れかと思う)。所得格差を拡大するか縮小するかという点では、何とも言えない印象。

 

所得税社会保険料や金融所得への一律課税などを含む)

累進度の高い課税と低い課税で分けて考えなければならない。

累進度の低い所得税は、消費税に近い効果を持つ。すなわち、安定した税収を示し、景気変動の抑制の役には立たず、価格交渉力の弱い経済主体が犠牲になりやすい。

累進度の高い所得税は、独自性が強い。すなわち、賃金の上下が少なくなることで景気変動を抑え、税収は不安定。価格交渉力の弱い経済主体が犠牲になりやすいことは、ここでも成り立つ。

所得税は、企業から見れば、雇用への罰金として機能するので、消費税のように雇用をやめて外注を推奨する圧力になるかもしれない。加えて、資本の導入を促し、生産量当たりの雇用数を減らす(雇用数当たりの生産量は増える)圧力になるかもしれない。


◎金融への規制と課税

金融への規制緩和金融工学の発達は、その多くがバブルを促すことになった。アジア通貨危機は国際短期融資の自由化が主な原因の一つだったし、リーマンショックはハイリスクな金融商品が中間層以下の市民に広く出回った結果である。ただ、金融は、その一部を規制すると(、資金調達の需要は消えてなくなったりしないので)、規制を回避する金融商品が発明されるという経験がある。バランスシートのふくらみは、貸借関係を結ぶだけで発生するのだ。金融工学の本質は、新しい借金を発明することといえる。

金融商品の売買を伴うすべての所得に対して、原則、高い課税をする。高い課税を例外的に回避できるのは、実体経済の取引に伴う所得であり、ホワイトリストに登録する必要がある。」くらいの包括的な法律がないと意味がないのだろう。もちろん、そんな法律を通す政治力は今の世界には存在しないし、法律が通っても実質無意味に終わるだろう。債権者は権力を持っている。米大統領は、今や、ウォール街の下僕だ。

 


◎ジョブギャランティ

ジョブギャランティは公共事業の拡大や公務員の拡充とは全く違う目的を持つ。ジョブギャランティの特徴は

・仕事内容が、急激な増減や短期的な計画でこなせる内容に限る。インフラにかかわる仕事はしない

・倫理や道徳に基づき、最低この程度の賃金が労働者に支払われるべきだ、といった水準の報酬が支払われる

・失業から再就職までのつなぎに使われることが理想

景気変動や失業率の上下の幅を小さくすることが目的

・景気が過熱するとジョブギャランティの雇用者数は自動で縮小する。その逆もしかり

・労働者にとっては、就業の習慣を維持したり社会的疎外感を緩和するなどの機能を持つ

・道徳的にも政策の効果としても「最低限」を保証するものであって「万能」ではない。公共投資や多くの公共政策の代わりにはならないし、雇用のほとんどを置き換えることもできない

一方で、公共事業や公務員雇用は、国家権力の維持向上や、安全保障、国民の生活水準を向上することがなど目的であり、景気変動や失業率のコントロールは少なくとも主目的ではない。結果的にその機能を持つが、主目的ではない。

ジョブギャランティを推奨する人は、格差拡大を防ぎ、貧困に対処するための、「的を絞った支出」という価値観を持っていることが多い。

ジョブギャランティは雇用と経済と金融の安定化を目的に使われる。雇用のバッファーストックであり、民間で雇用が増えるとジョブギャランティが減り、民間で雇用が減るとジョブギャランティが増える。雇用の最低保証があることで、民間がそれ以下の条件で人を雇いづらくなる。不況で失業者が大量発生し総需要が大きく落ち込む、といった悪循環を緩和することができる。景気がいいときは財政支出が自動で減って過剰な需要を抑え、景気が悪いときは自動で財政支出が増えて需要を下支えする。さらに、ジョブギャランティの仕事の内容を市場で求められている人材の育成の手助けになるものにすれば、ジョブギャランティの仕事ぶりのデータを入手できる民間企業(こんな書き方をすると一部の民間企業に限るみたいに見えるが、国内のすべての民間企業がアクセス可能なデータベースを公開するのが望ましいだろう)にとってはいい人を雇いやすくなる、かもしれない。失業の一部は、産業構造の変化や貿易の自由化に伴って発生する。ジョブギャランティは、労働者の生活水準を最低保証しつつ、労働者の新産業への適応を手助けし、産業変革の円滑化を進めることができる可能性がある。

ジョブギャランティ提唱者がしばしば雇用規制緩和や雇用流動化を同時に主張するのは、最低賃金の下支えと景気安定化と、産業の編成の変化への対応力強化と、労働者の生活習慣を守ることを同時に達成すると同時に、賃金上昇型のコストプッシュインフレを抑止するためでもある。

rokabonatttsu.hatenablog.com

 

 

ベーシックインカム

一部界隈で負の所得税などと表現されるように、一見経済弱者を助けることが目的の制度に見える。しかし、ジョブギャランティのように、失業を防ぐこと、営利企業の労働者の賃金を下支えすること、景気変動の幅を小さくすることといった機能がベーシックインカムにはない。ベーシックインカムを導入すると、企業は「給料下げても労働者を集められる」と考え(実際そうだし)、人件費が下がり、結果的に企業への賃金補助金になる(Amazonの倉庫で働く従業員などで、これと同じような構造の出来事が実際に起こった)。

ベーシックインカムと呼び水政策の組み合わせは、呼び水政策の意思決定に時間がかかるために、景気が回復済み・過熱気味のタイミングで支出が行われる可能性がある。また、大企業などの価格交渉力の強い経済主体に利潤が蓄積する。失業対策としては使えないので、やるべき仕事(新産業への適応や、ボランティア要素が強い労働など)が残されていて訓練次第でそれを担える人がいる時代では、社会全体でみた「人材の無駄遣い」に対応できない。

 

 

◎インフレ

インフレの原因は多様であり、事例ごとに好ましい対策方法も異なる。たいていは「輸入物価が安くなるようにする(発展途上国であれば生産力を伸ばしたり輸出を増やしたり、先進国であれば原油を買った企業に補助金をつけたり)」か、「所得拡大のスピードが上がりすぎないようにする」のが正解かな。

所得爆上げによる高インフレの何が問題なのか?「物価÷所得」は小さくなるから問題ないのでは?という疑問が残る。高インフレは内部留保を目減りさせる。無形資産へ投資額が内部留保残高と正の相関を持つことから、所得爆上げによる高インフレは無形資産で商売する産業が育ちにくいとか?

インフレについてまとめた記事↓

rokabonatttsu.hatenablog.com

 

 

◎貨幣数量説はヤバいって話

貨幣数量説というのは、

物価×生産量=貨幣数量×貨幣流通速度

で、貨幣流通速度が安定しているってやつ。(1990以降の日本を見れば、安定していないことはわかるんだけど、まぁここで言ってもしょうがない)

何がヤバいって、この恒等式が「貨幣数量が中央銀行によってコントロールされている」という信仰と結びつくと、「インフレ抑制のために貨幣数量を抑制しよう」って結論を導いてしまうのだ。どうしてヤバいのか?

需要の拡大は資金の借り入れ(=マネーストックの拡大)を伴うことが多い。緩やかなインフレや貨幣供給量の増加は、現代資本主義経済にとって自然な状態だ。にもかかわらず、需要の拡大(≒経済成長)と貨幣数量の抑制を両立しようとすると、政策金利(無担保コールレートとか。説明の便宜上、イールドカーブを除く)を上げる可能性が高い。金融機関同士の貸し付けの金利があがり、国債の利回りも上がりやすくなる(イールドカーブコントロール自体が政策目標になると、国債の利回り事態が当局の操作目標になる)。政策金利の高騰は、国債の利回りを通じて国債保有者(≒金持ち)の収入を拡大する可能性が高い。

一方で、金融機関は準備金を借りる(あるいは保有する)ときの金利が上がると、企業や個人への貸付の金利を上げる圧力になる。国債で運用するほうが収入が大きくなるなら、金融機関は融資する利点がなくなるからだ。企業の資金調達が難しいと、需要創出もその分難しくなり、生産力の維持拡大の必要がなくなり、失業が増えることになりかねない(もちろん株式会社ならか株式発行によって資金調達できるし、そもそも将来どの程度の利潤が得られるかが金利の支払い金額よりもかなり大きい不確実さを持つので、ローンの金利が上がったからと言って資金調達が困難になるとも限らないわけだが)。

失業と金持ちの収入を同時に上昇させかねないのだ。

 

 

◎優遇しなければ金持ちや大企業が海外に逃げる?問題は?

まず、金持ちが所得を移転するということについて。究極的には、中国のように、所得移転を厳しく制限することもできる。が、その必要はないだろう。所得の移動は、実物資本や実物資産の移動ではない。所得の流出が増えることの影響は、せいぜい通貨安程度であろう(金持ちが国内で稼いで外国の通貨に両替するなら、それは通貨安の話である)。通貨安になると、輸出企業が喜び、輸入企業が悲しみ、輸入物価が上がる。だが、金持ちの所得移転程度で為替に与えられる影響はかなり小さい。為替には、いわゆる投機マネーが最も強く影響するようで、ほかにも貿易などの影響もあり、所得移転の中の金持ち個人の所得程度では、その影響はたかが知れている。

続いて大企業が海外に逃げるという話について。本社や事業委託する子会社を海外に移せば、法人税を払わないですむという話がしたいのであろう。「本社や子会社が海外に移っても、市場が海外に移るわけではない。市場がある限り、そこでビジネスをしたい営利企業は存在する。逃げられたくなければ、本社や委託先が海外にある企業からは税をとればいい。一種の関税だ。関税の内側でビジネスがしたくて生産拠点を国内に残すなら、特に問題ないのではないか。」と言いたいところだが、究極的には国内から引き上げるぞという脅しを使って外交的な圧力をかけることもできるので、別途規制が必要かもしれない。中国共産党などは、その程度の悪知恵を働かせる能力を必ず持っている。ここは重要な考察ポイントだ。法人税の引き下げ競争には乗るべきかもしれないし、高い法人税を課しながら国内の生産力と安全保障を維持向上する方法があるかもしれない。

 

ちなみに、人件費が安いから発展途上国に外注というビジネスモデルは持続性を保証できない。というのも、先進国の機械化&ソフト開発によって、いずれ高確率で先進国が先に生産性を向上させ、すべての生産拠点を先進国に置く方が安くなるタイミングが来るかもしれない。コンテナの発明は運送費を激減させ先進国の産業空洞化を促したが、人工知能系の発明は機械にできることの可能性を飛躍的に伸ばし、安い人件費より機械を動かすほうが安い状況を作る。コンテナはすでに世界中に広く普及したが、人工知能による労働市場の変化は現在進行形であり、本格化はこれからだ。輸送に革命が起きない限り、あるいは発展途上国側が先進国側よりも先により高度な資本を得るというありそうもない事態が実現しない限り、先進国で生産したほうが安い現象が起こる可能性が高い。輸出産業を失ったとき、発展途上国は突然外貨獲得手段を失い、国内には無意味な生産能力しか残らず、その損失をだれにも保証してもらえない。だから、もし私が発展途上国のためを思うなら、輸出依存の経済政策は一時的に採用するものであって、輸出産業をいつ失っても大丈夫なように輸入代替産業を育てる努力をする。

 


◎政策目標に用いる指標は何が望ましいだろうか?

インフレ率よりも良い指標はないか?実質賃金上昇率とか、実質GDPとインフレ率の兼ね合いとか?利潤と賃金の分配の割合を目標にするとか?

 

何か一つの指標を政策目標にするのは、多様な状況が発生しうる、不可逆な変化を繰り返す社会において、良い方法ではないとも思う。臨機応変と議会制民主制は相性悪い、なんて言わない。

 

 


◎主な参考図書を最後に

bookmeter.com

bookmeter.com

bookmeter.com

bookmeter.com

 

 

ポスト・ケインズ派の消費者理論に、無差別曲線を無理やり適応してみたら、たぶんこんな感じ。

 

新古典派系列の主流派経済学との対比や、主流派の使う無差別曲線の議論のうさん臭さを理解する一助として。ポスト・ケインズ派の消費者理論に、無差別曲線を無理やり当てはめてみた結果の提案を記録する。

 

 

ポスト・ケインズ派とその消費者理論について

ポスト・ケインズ派の消費者理論ってのは、この記事にまとめてある。言葉の使い方もこの記事に準拠。

rokabonatttsu.hatenablog.com

日本語でもっと良い記事あるかもしれないけど、どうなのかな?

 

(日本では?)少数派だから、情報が少なくて勉強しづらいんだよなぁ。ポスト・ケインズ派って。

(現代貨幣理論(MMT)はポスト・ケインズ派の影響を強く受けていると言える。「ポスト・ケインズ派の中でも”ファンダメンタリストケインジアン”だなんて呼ばれてるグループから、機関投資家のウォーレン・モズラー氏の財政周りの実務の知識を受け入れた人たちが、現代貨幣理論を生み出した」と思われる(私の勉強した範囲ではそんな気がするだけ。実際のところはどうなのかわからん)。現代貨幣理論に関しては、ネット上でバズったお陰か、本もネット記事も割と豊富。豊富だけど、厳密さを求め始めると、玉石混交。)

自分が読んでよかったと思う、ポスト・ケインズ派の図書はこちら。

bookmeter.com

bookmeter.com

 

 

この記事では、ポスト・ケインズ派の消費者理論を無差別曲線で表現します

下の画像、「無差別曲線はこんな感じになると思う」ってものを図示してる。間違ってる部分は、見つけ次第直して更新する予定。「ここが間違ってるぞ」とか「ここはたぶん違うよ?」みたいなことがあれば、記事の下の方で”コメントする”ってボタンがあると思うので、そちらからコメントくださると、中の人が喜びます。

以下の画像のニュアンスは、ポスト・ケインズ派の消費者理論を知っていないと、何が何だかわからないと思う。すべての画像において、黒塗りの領域は効用が最大の無差別曲線を意味する新古典派系列の経済学とは異なり、ポスト・ケインズ派は、「これ以上の財の消費は効用を増やさない」という領域を考える。「食べきれない量の食品の消費は効用を増加しない」という常識的発想があるためだ。

 

 

ポスト・ケインズ派の消費者理論を無理やり無差別曲線で説明した図一覧

①近い階層に属する異なる必要性X,Yの「無差別曲線のようなもの」

必要性XとYの「無差別曲線のようなもの」
説明の無い直線・曲線・黒塗り領域が「無差別曲線のようなもの」である

ポスト・ケインズ派は、「異なる必要性を満たすための2種類の財の欲求は、お互いを代替できない」と考える。そのため、厳密な意味では、異なる必要性にまたがる無差別曲線は定義されない。

 

 

 

②優先順位が大きく異なる必要性X,Yの「無差別曲線のようなもの」

優先順位が大きく異なる必要性X,Yの「無差別曲線のようなもの」
点・太直線・黒塗り領域が「無差別曲線のようなもの」である



 

 

③同じ必要性を満たすための2種類の財x0,x1の無差別曲線

同じ必要性に属する一長一短な財x,yの無差別曲線
説明の無い曲線・黒塗り領域が無差別曲線である

 

これだから経済学は使えない。均衡モデルの実用性の否定から見た、新古典派系の経済学のポンコツさの一端

均衡に全面的に頼った理論のほとんどが、合理的経済人が効用の最大化を目指す行動をとるという仮定を前提としている。すべての経済主体が、様々な物事の期待値分布を正確に認識でき、効用を最大化するために行動するという前提だ。しかし、これがそもそも誤りだ。実態とは明らかにかけ離れている。

 

未来は不確実で、ほとんどすべての経済主体は、経済活動における ”ほとんどすべての将来の事象の期待値分布” を正確に予測することはできないし、現在の人々の決断が未来に影響を与えるのだから、期待値分布が存在するという前提がそもそも怪しい。期待値分布がわからない以上、限界効用・限界費用・限界収益などを用いた議論はことごとく意味をなさない。

近い未来の需要曲線を予測する場合を考えると、例えば広告を理由に需要曲線が大きく変化することもあるし、広告する企業もその効果の大きさを事前に正確に予測できることは少ない。そのうえ、一定以上の商品供給を計画した後に広告を始めるのが普通だ。社会情勢が変われば何が売れるかも大きく変わる。いち早く未来の流行を読んでビジネスを始めた人々も、その多くが最終的には失敗に終わる。我々は「生産したもののほとんど売れず、撤廃された財やサービス」の多さを無視してはならない。そのほとんどは、生産者が「これなら売れる」と信じて努力した結果だからだ。

 

根本的な問題は、「経済主体が期待値の正確な予測をできないこと」のほかにも沢山ある。例えば、人々は効用を最大化するべく行動するとは限らない。すべての経済主体は、行動に伴う効用を正確に予測することなどできないのだ。人々はせいぜい、「ほどほどに経済合理的」に行動できるに過ぎない。

効用がらみの問題でいえば、効用の概念がそもそも大問題なのだ。食欲と性欲と睡眠欲を満たす需要は、それぞれ別の尺度でその効用を評価されるべきだが、新古典派系の経済学においては、異なる尺度で考えるべき異なる種類の効用を、(予算制約線や無差別曲線などの概念で)代替可能なものとして扱う。異なる多くの種類の効用を、共通の「金額に換算」して解釈できることになっている(そうでなければ、予算制約線や無差別曲線をすべての財に対して用いるという発想にならない)。

 

人は、社会は、歴史的時間の中を生きている。歴史的時間とは、過去が現在の状態の原因であり、現在が未来を形作るという考え方である。当然のように、経路依存性を考慮することを求めるし、現在を生きる人がどのような選択をするかによって、形作られる未来は変わると考える。経済は、法律・国際条約・財政支出・マスコミのプロパガンダ・文化・生活習慣・科学や技術の進歩などの様々な要素によって、不可逆な変化を繰り返している。

歴史的な時間の概念が示すのは、均衡点は仮に存在するとしても常に動き続けるものであり、しかもその動きが周期的な変動を示す保証もないということだ。このことが、過去の経験から得た法則が将来にわたって当てはまる可能性を著しく下げることになる。スタグフレーション新古典派総合を殺したのも、これが理由の一つ。表現方法を変えると、「経路に依存して均衡点が変わり、均衡点の位置の変化が止まらないのなら、均衡点の概念は成立しない」といったところ。

 

均衡を用いた分析を好む人たちはしばしば、自由貿易・自由市場がすべての人々の生活を平均的に豊かにすると信じている。これは、かなり短期的な視点に立てば正しいかもしれない。しかし、それもあくまで短期的な話。産業革命以降の近現代社会においては、生産に用いるリソース(従業員のノウハウ、工場設備、技術など。言い換えると資本)の蓄積によって、飛躍的に生産性を向上させることが多々ある。そして、資本の蓄積による生産性の向上は、(時間がかかるものの)事実上の上限がない。一方で、交易の自由化と、自由化に伴う便益の増加は、その程度に上限がある。関税は最低でもゼロにしかならないし、(輸出)補助金をつけることも自由市場と自由貿易の否定だ。究極の規制緩和は無法地帯だが、それ以上の規制の撤廃はその概念の性質上不可能である(そもそも市場は、決済を保証する法・行政権力・司法があって初めて機能するものだ)。自由化で生まれる総余剰の増加は、簡単に頭打ちになる。

そもそも、需要曲線(あるいは限界効用曲線)と供給曲線(あるいは限界費用曲線)の交点で均衡して云々という話から、生産者余剰と消費者余剰の概念を生み出すわけだが、「マクロ経済において、生産者が同時に消費者でもある」という発想が抜け落ちているので、生産者余剰が小さくなると消費者余剰もほぼ確実に小さくなることを忘れている。そもそも、消費者余剰が「お得感の合計」と比例する、という発想がすでに間違っている。加えて、デジタル系・プラットフォーム系のサービスは規模の経済が効くので寡占化独占化するのが普通であり、市場を一企業が独占して供給するのが最も供給曲線を低くする条件であり(自由競争の市場が最も効率的だとする思想の否定)、プラットフォーム系のサービスが独占企業で提供されているときは限界費用が下がり続けることが多い。限界費用が生産量の増加とともに小さくなるとき、供給曲線も右肩下がりになり、会計的にも経済学的にも利潤が出ている場合も、生産者余剰はマイナスになる。生産者余剰を生産者の利潤の合計かのように扱えるのは、供給曲線が問答無用で右肩上がりになる物々交換的な市場だけだ。

貿易や市場の自由化は、必然的に経済的なグローバル化をもたらす。グローバル化すればするほど、多くの産業のサプライチェーンが複数の国を経由する。そのどこかで不具合があれば、すべての国に悪影響が波及する*1。自国の政府が関与できない外国で起こった出来事が、国内の人々の生活を左右する。

加えて、貿易や市場の自由化は、進めすぎると、自国の産業を発展させる政府の政策(貿易協定の可否・法改正や財政支出)を使えないようにする。自由化を訴える人たちが、「政府の活動が自由市場を破壊し、資源や労働力や財の効率的な分配を妨害する」と主張するからだ。政府の仕事を悪役にした結果、国内に産業を育成するために行われる研究・開発・設備への投資ができなくなると、残念ながら国内に新しい産業を育てるのはその分難しくなる。関税を下げすぎれば、価格競争力の低い自国の産業が消滅し、何か欲しいものがあったら自国で作るよりも外国から買ってくる、ということになる。その結果、今まで自国で生産できたものが生産できなくなる(それは控えめに言って発展途上国化だ) のみならず、財政支出を継続的に増やして民間に投資と消費を促したとしても、自国で生き残った産業分野でしか、資本の蓄積による産業の生産性を飛躍的に上げる政策がとれなくなる。「グローバル化以前は、財政支出を増やすと民間の投資支出の増加がみられた。投資は失敗に終わることも多々あったものの、全体的に見て、生産性の飛躍的向上をもたらした。グローバル化後は、財政支出で生み出した国内の民間消費の増加が、海外の民間企業の売上を伸ばしてばかりで、国内企業の投資を促すことができず、生産性が向上しづらくなった。」なんてことになりかねない。ちょうど良い水準を超えた貿易や国内市場の自由化は、総需要コントロールを使った長期的な経済成長を阻むのだ。”ちょうどよい水準の貿易や市場の自由”とは、かつて冷戦時代に西側先進国と呼ばれた国々の、政府主導で需要を作り家計の支出と民間企業に投資を促すことで高度経済成長した1940~1970の頃の状態である。日本の高度経済成長も例外ではない。

均衡を多用するモデルが推奨する通りに交易を過度に自由化し、時間がかかる資本の蓄積を怠れば、長期的な生活水準向上は望めない。資本の蓄積に基づく飛躍的な生産性向上を考えるとき、均衡を多用するモデルは使い物にならない。

 

生産性の向上は、供給曲線・限界費用曲線などの大幅な変化とともに、従業員は同時に消費者になることも含めて考えれば、需要曲線や限界収入曲線の変化ももたらす。均衡の議論を用いた効用の最大化を理由に自由貿易・自由市場を善とする人々は、生産性の飛躍的な向上の可能性を無視している。保護貿易・市場の規制は、長期的な視点の下、自国の産業の生産性を飛躍的に伸ばしたり、独占企業のモラルを維持するなどの理由で行われる。そして、国内の人々の生活の(少なくとも物質的な)豊かさは、国内の人々の労働生産性の高さだけが主要因となる。生産のリソースを増やす活動、すなわち投資の効果が表れるまでの比較的短期間を考える場合のみ、自由貿易は人々を豊かにする最適な手段かもしれない(それすら怪しいが)。しかし現実の歴史ある世界において、最初の産業革命以来、人々の生活水準を飛躍的に伸ばしてきたのは、限られた資源・財・サービスの効率的な分配ではなく、より多くて多様な資源・財・サービスを生み出す仕組みだった。限られたパイをいかに効率よく使うかではなく、パイをいかに大きくするかが重要だったのだ。均衡を用いた分析は、過去の決断が現在を創り、現在の決断が未来を創るという発想を、最初から捨てている。後からどんなにイノベーションの研究を組み込もうとしたところで、最初の時点でイノベーションの概念(それはすなわち歴史的時間の概念の一部)を否定したモデルなのだから、均衡を用いたモデルは、少なくとも資本主義の現代にはなじまない。

*1:世界大恐慌アメリカから世界に波及したのは帝国主義に伴うグローバル化の成果であり、アジア通貨危機は国際金融の自由化が主な原因を作った。リーマンショックが波及したのももちろん、経済グローバル化のおかげだ。グローバル化した世界では、どこかの国が不景気に陥ると、その国が輸入する産業のサプライチェーンが経由するすべての国が不景気になりかねないし、サプライチェーンのどこかで生産活動の縮小を余儀なくされると、それ以降の工程のすべての国でも生産活動が縮小する。そしてたちが悪いことに、自分の国に及ぶ悪影響の原因を解決しようとしても、主権が届かない外国の出来事である以上、自国の政府がとれる対策はかなり制限される。グローバル化を進めるということは、主権を手放すということであり、世界経済の不安定化を促すことでもある。まあ、詳しことはわからなくてもいい。短い文章で説明できる話ではないので、ここでは説明しない。

ポスト・ケインズ派の「消費者理論」

消費者がどのような過程を経て意思決定を行い、消費行動を行うか。これを説明するのが消費者理論。この記事では、(少なくとも一部の)ポスト・ケインズ派が提案する消費者理論についてまとめる

 

 

最初に

これ以降この記事では、「必要性」という言葉と「欲求」という言葉を乱用するが、

必要性はneedsの翻訳、欲求はwantsの翻訳。一般的な使い方ではないかもしれない(というか、翻訳する人によって多分異なる語を当てると思う)ので、ご注意を。

必要性は、食品・衣服・住居・娯楽・交通といったレベルにカテゴリーを作り、各カテゴリーの内部でさらにサブカテゴリーを構成している。

欲求は、特定の財(商品ともいう)と一対一対応する。

食品の必要性の中の、飲料というサブ必要性の中に、オレンジジュース必要性があって、オレンジジュース市場に数社の製品が供給されていて、それぞれの製品に対応する欲求がある、といったイメージ。

 

ポスト・ケインズ派の消費者理論では、以下の7つの原理が提唱される。

 

①手続き上の合理性の原理

経済主体は完璧な知識や大量の情報を処理する能力を持っていない。(一方で、新古典派系の多くの学派は、合理的経済人を仮定するなどの理由で、完璧な知識や大量の情報を処理し、正確に予測する能力があるという前提に立つことが多い)

経済主体は、複雑な計画や考察を避ける手段や、不完全な情報にもかかわらず意思決定を可能にする手続きを工夫するとされる。意思決定の手続きや手段には、経験則・社会的慣習の受容・情報通と察せられる他人の意見への依存などが用いられている。(手続き上の合理性と呼ばれる所以)

消費者はしばしば、他人の勧めに従って、社会的規範に従う形で、ほとんど代替案を考察することなく、明確な基準を意識することもなく、消費行動をとる。

手続き上の工夫は、「限られた知識と予測能力」「時間的制約」「不確実性を含む状況」に対する実現可能かつ賢明な解決策である。

人の認知判断能力を現実的に評価するという意味で合理的で、限りある認知判断能力の範囲内で合理的な行動をとっているので、「合理的な合理性の原理」と呼ぶこともできるであろう。

 

②必要性充足の原理

充足とは、特定の水準を超えるとその材が消費者に満足をもたらさなくなることである。充足を考えるとき、消費には閾値レベルが存在する。閾値を超えると、それ以上の財は、価格がどんなに安くても、購入されないであろうとされる。

必要性充足の発想は、新古典派の限界効用逓減の原理と似ていなくもないが、ポスト・ケインズ派の消費者理論は、以下のようなポスト・ケインズ派に特有の意味を含む。

まず、ポスト・ケインズ派の必要性充足の原理は、効用が単調増加で”漸近”するのではなく、一定値で頭打ちになると考える。

次に、ポスト・ケインズ派は、欲求と必要性を区別する。特定の必要性は、ほかの必要性よりもはるかに早く満たされる必要がある。必要性は、階層的に分類され、消費者行動の原動力である (だからと言って、マズローの仮説を支持するとは限らない)。欲求は必要性から生じる。特定の一つの必要性を満たすための複数の欲求は、お互いに代替できるものであり、優先順位が近いが異なる必要性に属する複数の欲求は、人によって多様な優先順位を構成している。

 

③必要可分性の原理

必要性の可分性により、消費者は意思決定過程を一連の多段階のより小さい意思決定に分割できる。消費者は、自分の予算を各必要性に配分し、続いてその各必要性への配分額を、ほかの必要性に何が起こるかに関係なく支出する。各必要性に振り分けられた予算は、各必要性やさらに細分化された必要性に配分され、支出される。

その結果、特定の必要性に属する一群の欲求の全体的な価格の上昇・下落は、すべての必要性への予算配分に影響をもたらすが、ある特定の財の、(特定の必要性を満たす一群の財との比較による)相対価格の変化は、他の様々な必要性への予算配分に影響を及ぼさない。(特定の必要性を満たす一群の財は、価格上昇する財もあれば価格下落する財もあって、代替性もあるので、特定の財の価格が上がっても、各必要性に配分される予算額は影響しない。という含みがあるようだ。)

必要可分性の原則は、新古典派の無差別曲線を用いた議論に対して実質的な制約を課す。

欲求を、食欲という必要性に属するものに限定できるなら、新古典派の無差別曲線がある程度説明能力を持てる(パンとコメのトレードオフを示す無差別曲線など)。パンの価格がサバクトビバッタや森林火災のせいで上がったら、コメの消費が増えるかもしれない。

しかし、食欲という必要性を満たす欲求と、食欲以外の必要性を満たす欲求を考えるとき、それぞれの欲求は代替することができない。車の価格が下がっても、パンを買うのをやめて代わりに車を買ったりはしない。

 

④必要性従属の原理

この原理の下では、効用が、多様な状況に対応可能なスカラーな尺度で表せない。効用は、ベクトルによって表すことしかできない。言い換えると「異なる必要性を満たす欲求の効用は、同じ尺度で比べることができない。食欲・性欲・睡眠欲といった異なる必要性を満たす欲求の効用は、それぞれ違う尺度で表現するしかない。複数の必要性を満たすための予算配分の議論において、効用を最大化する予算配分を考えるのは、長さ・重さ・時間のすべてを一つの単位で表現するようなもので、現実的ではない」といったところ。

必要性従属の原理はしばしば、人間性心理学派によって記述されるような、必要性がピラミッド状をなす(=必要性の階層性)という考え方と結び付けられている。

予算はまず必ず満たされなければならない必要性を満たすための必需品に割り当てられ、次いで必ずしも必要とはいえないカテゴリーの必要性に振り分けられる。「絶対に満たされなければならない必要性を満たす必需品」と、「比較的満たされなくても問題ない必要性を満たす財やサービス」との間に、代替関係は存在しない。

必要性は分割可能であり、まず最も基本的な必要性から優先順位に従って処理される。必要性への予算配分は、必要性が閾値レベルで充足されるまで続く。(古典派による必需品と奢侈品との間の区別、あるいは、スラッファによる基礎的商品と非基礎的商品との間の区別に対応する発想と言ってよさそう。)

 

効用がベクトルでのみ表現可能となるとき、最初に各必要性に対して予算配分が行われ、続いて、異なる必要性を満たすための財に何が起こるかに関係なく、どの財を購入するかを検討することになる。その結果、異なる必要性を満たす財の間に代替可能性がなくなり、同じ必要性を満たそうとする財だけが、代替可能性を考える対象となる。このことは、手続き上の合理性とも両立する。つまり、複雑な計画や情報収集をすることなく、どの財を購入するかを決めることができる。

最も基本的な必要性についての意思決定は、より上位の必要性の場合に必要とされる情報と関係なく行われる。消費者は、自らが達成できない必要性や既に充足の閾値を超えている必要性について、どの財を購入するかを検討する必要がない。

 

理解している方にとってはくどいだろうが、重要な事なのでもう一度。「効用はスカラー量で表現できない。あくまでベクトルで表現できるに過ぎない」のである。

 

⑤必要性成長の原理

ある必要性が充足されたときに、正確に言うとその必要性の閾値レベルが達成されたときに、個人はより高い次元にある必要性に注目し始める。充足されるべき新しい必要性は常に存在する。もしもまだ新しい必要性が存在していないならば、それは必ず作り出される。

必要性を満足させるためには、しばしば追加的な所得が必要となる。代替効果は、同じ必要性を満たすための財が考察されている消費者行動分析においてのみ、意味を持つ。特定の財の相対価格の変化は、「その財が満たそうとする必要性に属する全ての種類の財の代替可能性を考慮したとしても、必要性を以前と同じ水準で満たすために必要な予算が変化する場合」のみ、それぞれの必要性の予算配分に影響を与える。財の支出を説明するうえで、重要度は

所得効果・社会的地位・慣習や個人的習慣  > 代替効果

ということだ。そしてその根本的な原因は「欲求が必要性から生まれ、必要性が社会的地位や習慣に影響を受け、同時に必要性が優先順位で階層構造を作るから」だ。異なる階層の必要性を満たすための欲求は、代替効果を持たない。

 

⑥非独立性の原理

個人の意思決定と選好は、他人の意思決定や選好と無関係になされることはない。消費者とは、ほかの消費者、特に消費者として上位の階層に属するとみられる人々をよく観察し模倣する。欲求の構成内容は、その人の属する社会経済的階級に左右される。ある家計の消費行動様式は、その同じ社会的準拠集団(個人の態度・判断の基準として影響を受けるグループ)を構成するほかの家計の生活様式を反映する。

 

⑦継承の原理

選好は内生的だ。選好は、自らの過去の経験に影響を受ける。習慣の形成は、ポスト・ケインズ派マクロ経済学の特徴である。経路依存性・履歴現象の一つのパターンとして、習慣を扱う。過去の意思決定は、将来の選択に影響する。

 

 

 

最後に

ポスト・ケインジアンの消費者理論の説明を含む論文で、こんなのがあった。

https://link.springer.com/content/pdf/10.1007/1-4020-3518-7_4.pdf

Post Keynesian consumer theory: Potential synergies with consumer research and economic psychology - ScienceDirect

 

必要性と欲求を区別することは、消費者行動を説明するのにとても重要だと思う。

必要性に優先順位があるのは確かだが、キッパリと区別できる階層構造ではない。必要性は優先順位に応じて階層構造を持つが、同時に、階層間である程度競合するであろう。

 

最後に、この記事にまとめた消費者理論の解釈として、私が想定する注意点を、箇条書きで書き残しておく。

・「欲求」という言葉を使うときには、かなり同質な財に限定して考えているはずだ。例えば食欲を満たす欲求として、スーパーの野菜と肉とお惣菜、回転寿司と牛丼チェーン店を区別しているのはもちろん、有機野菜かそうでは無いか、コシヒカリかアキタコマチか、といったかなり細かい区別で、同じ必要性を満たす異なる欲求として扱われている、と解釈するべきだと思う。

・「必要性が充足したら、その必要性を満たすための欲求は無くなる」という説明は、「比較的低所得でも満たされている必要性への予算配分額は、高所得になっても変わらない」という意味ではないはず。もしも、計量カップのように、水の総量(予算総額)に関係なく、各階層の必要性への予算配分額(メモリの間の距離および体積)が一定だというのなら、実際の消費行動を説明できるとは到底言えない。高級○○と呼ばれる財やサービスは、予算総額次第で、すでに満たされている必要性への予算配分額が変化しうることを意味する。

 

 

 

この記事を補完することを目的の一つとして、このような記事も書いた。

rokabonatttsu.hatenablog.com

 

 

 

参考図書

bookmeter.com

 

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