好奇心の横断歩道を創る!

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これだから経済学は使えない。均衡モデルの実用性の否定から見た、経済学のポンコツさ、まとめ(仮)

#編集用メモ*1

 

理論の内容そのものへの批判

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IS-LM分析について 期待の不確実性や、金利の水準の関数とする仮定の無理、マネーストックが外生的という想定の無理。

 

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・経済学は技術だ。科学ではない。科学ではないのに科学のふりをすることが、経済学の使えなさの一助となる(制度や慣習などの影響が市場や経済の性質を左右することに言及)

・効用のスカラー表現(需要の代替が可能との主流派の思想)とベクトル表現(欲求の可分性)から、無差別曲線と予算制約線を用いた議論の厳しい制約を。PKの消費者理論に触れる。ついでに、資本と労働力が代替できないことについても。資本と労働が代替できるという想定が、最低賃金が0になる前に完全雇用状態が実現するはずだという幻想の原因の一つになっている

・紙幣が増えても、預金が増えても、それ自体が物価を上昇させることはない。投資需要の増加が借り入れ増加に伴い通貨の流通量を増やし、借り入れの返済のための価格転嫁や需要と供給のバランスの変化によって、少なくとも一時的に物価の上昇圧力となる。紙幣や預金が増えるのは、将来の消費需要の期待を発端とした、投資需要などを経由した借入増加の結果。紙幣や預金の増加は、財政支出によってももたらされるので、必ずしも将来の消費需要の期待が紙幣や預金の増加の原因ではないが。いずれにしても、マネーストックの増加自体は物価を上昇させるわけではない。

・経済学は、金融と経済の結びつきを軽視しすぎている、あるいは金融の機能を勘違いしている

・生産者は同時に消費者である。生産者余剰を拡大し、広く所得として広く分配された場合、やがて需要曲線が上がり、その影響で多くの場合取引量が増え、消費者余剰も大きくなるであろう。広く分配されることが前提にはなるが、生産者余剰の増加はほかの市場を含めて取引量と消費者余剰が増加する。ただしこれは、完全競争市場での話。生産者と顧客がともに無数いる場合の話

・長期的な生産力の成長は、需要の誘導によってある程度可能である

 

非人道的思想を内包することへの批判

・「ほとんどの問題は市場さえ使えば解決する」という信仰は嘘だ。市場が得意な分野と、市場が不得意な分野があって、我々は良心的に仕組みを選択することを望む。市場原理主義的な思想は、計画経済至上主義的な思想と同じように、科学や技術の発達の機会を奪い、大衆の生活水準の向上の機会が失われてきた可能性が極めて高い。

・世界の文化的多様性を保つには、異なる価値尺度を持ち、異なる政治体制を持つ多数の集団(それは多くの場合、国家が適していると思う)の共存が必要不可欠である。経済と価値観の世界的統合(経済の統合は自由貿易主義によって、価値観の統合は市場原理主義によって)を前提に体系を作った経済学からは、おそらく今後とも、世界の多様性を尊ぶ結論は出てこない。根本的な理由は、現実の観察結果を大事にせず、仮定が現実的であることにこだわらなかったからだろうか。多様性は、自由を手に入れるために必要なものだ。ここでいう自由とは、検討に値する選択肢が多く存在する状態である。

 

 

~~~編集用メモ~~~

追加したい要素

・自然利子率なんてない

・マクロ経済の活発さを決定する要因として、利子率の果たす役割は小さいことが、経験的にわかっている。利子率が所得水準を決定する主要因だと考えることはできない。(ヒックス=ハンセン・モデルの否定)

・資本と労働は多くの場合代替不可能

・準備率100%のとき、貸し出しの上限額は0ではない

完全雇用は「自然な状態」ではない(資本と労働は置換できる→労働需要が供給より小さくなると、労働価格が下がる→労働の価格が下がると、資本が労働で置換される→最低賃金がない限り、失業はあり得ない という一連のロジックは、現実では資本等労働力が置換できないので、成立しない。)

・競争市場的ではなかったことが、技術革新の強力な推進力になってきた。基礎研究は(研究する現場の経済主体にとっての)採算度外視で投資して、初めて成果を上げる。巨大な市場で商売する大企業ほど、投資費用の回収が容易なので、投資に積極的になりやすい条件の一つを有する。「完全競争は単に不可能であるばかりでなく、劣等なものであり、理想的能率のモデルとして設定されるべき何らの資格をも有しないものである」

フィリップス曲線は、存在するかどうかが怪しい。新古典派の議論の欠陥を埋めるために場当たり的に採用された現実離れした仮定だ。

・均衡を多用するのが主流派の特徴。バッファを多用し、均衡で説明できない要素を重く見るのがPK。(均衡を無視しているわけではない。バッファを食いつぶすと均衡モデルっぽくなると説明する。経験的に、多くの場面で、バッファは存在する。バッファの種類は、例えば、商品の在庫の変化・稼働率の変化・家計の預金残高の変化・公開市場操作 など。バッファがある間は、商品の価格が変わらなかったり、賃金体系が変わらなかったり、消費の習慣に変化がなかったり、金利が一定の範囲内でしか変化しなかったりする) バッファを認めると均衡モデルが使えなくなるからか、バッファの概念を無理くり組み込もうとしたのが硬直性だと思う。予測不能な未来に備えてバッファをとるという解釈のPKと、硬直で変化しない時期を説明する主流派。

・経済学は、実験の困難さゆえに検証が追い付かず、神学論争を繰り返し、多くの派閥を生み出してきた。現在主流派の学派は、観察に基づくものでもなければ検証されてもいない仮説と理論を多用しつつ、(物理学などと比べるとあまりにもショボいものの、)精緻な理屈を作ってきた。一方のPKなどは、現実的な仮定を置いて議論を始めることにこだわるので、現場の手続き手順がそのまま過程として採用されることが非常に多い。仮説が現実そのものに近いことに、比較的強い執念を燃やしているからだ(私の中では、「観察したまま仮説化主義」と呼ばれている)。非主流派のこのような方法は、主流派に言わせれば、「条件次第で結論が変わるなど、予測力を持たない非科学的な論理」ということになるのだろう。実験による検証が難しい分野=経済を扱っていて、しかも経済自体の性質が時代とともに変わり続ける以上、経済学は科学的になりえないのだが、主流派はその点をどのように考えているのだろうか?謎だ。科学を自称し物理学っぽい体系を目指しているなら、反証可能性にこだわらないとだめだよね。

 

上記の内容とリンク先の内容は、この記事を改変中

これだから経済学は使えない。均衡モデルの実用性の否定から見た、新古典派系の経済学のポンコツさの一端 - 好奇心の横断歩道を創る!

*1:

一般均衡理論は、比較静学分析であって、動学的な現実の経済の説明に適していない方法を最初から採用している。動学的と銘打つ分析もほとんどが、外生変数を変動しながら、せいぜい過去の一二種類の変数に対してフィードバックをかけつつ、静学分析を繰り返しているだけだ(期待インフレ率の算出に現在までのインフレ率のフィードバックをかけるなど)。これでは、さまざまな種類の経路依存性を取り扱うことができない。

一般均衡理論を採用するすべての学派は、(事実に対する説明能力の不足という意味で)非現実的な仮定を含んでいる。一般均衡理論を採用しない多くの学派ですら、非現実的な仮定は多用される。

以上の2点が、経済学から説明能力を奪った主な戦犯だ。たいていの問題点は、原因をたどるとこの二つに行き着く。将来的に可能であれば、そのあたりをまとめた内容をこのシリーズと別に書こうかと思う。

記事は少なくとも2本。その内容は「いつまでたっても比較静学分析が経済をうまく説明できない理由」と「経済の性質は本質的に制度特定的かつ文化特定的かつ資源特定的なものである。有用な理論は、前提条件別になものでしかありえない。ということで、採用されがちな仮定とその現実性の評価を一覧。」