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これだから経済学は使えない。均衡モデルの実用性の否定から見た、新古典派系の経済学のポンコツさの一端

均衡に全面的に頼った理論のほとんどが、合理的経済人が効用の最大化を目指す行動をとるという仮定を前提としている。すべての経済主体が、様々な物事の期待値分布を正確に認識でき、効用を最大化するために行動するという前提だ。しかし、これがそもそも誤りだ。実態とは明らかにかけ離れている。

 

未来は不確実で、ほとんどすべての経済主体は、経済活動における ”ほとんどすべての将来の事象の期待値分布” を正確に予測することはできないし、現在の人々の決断が未来に影響を与えるのだから、期待値分布が存在するという前提がそもそも怪しい。期待値分布がわからない以上、限界効用・限界費用・限界収益などを用いた議論はことごとく意味をなさない。

近い未来の需要曲線を予測する場合を考えると、例えば広告を理由に需要曲線が大きく変化することもあるし、広告する企業もその効果の大きさを事前に正確に予測できることは少ない。そのうえ、一定以上の商品供給を計画した後に広告を始めるのが普通だ。社会情勢が変われば何が売れるかも大きく変わる。いち早く未来の流行を読んでビジネスを始めた人々も、その多くが最終的には失敗に終わる。我々は「生産したもののほとんど売れず、撤廃された財やサービス」の多さを無視してはならない。そのほとんどは、生産者が「これなら売れる」と信じて努力した結果だからだ。

 

根本的な問題は、「経済主体が期待値の正確な予測をできないこと」のほかにも沢山ある。例えば、人々は効用を最大化するべく行動するとは限らない。すべての経済主体は、行動に伴う効用を正確に予測することなどできないのだ。人々はせいぜい、「ほどほどに経済合理的」に行動できるに過ぎない。

効用がらみの問題でいえば、効用の概念がそもそも大問題なのだ。食欲と性欲と睡眠欲を満たす需要は、それぞれ別の尺度でその効用を評価されるべきだが、新古典派系の経済学においては、異なる尺度で考えるべき異なる種類の効用を、(予算制約線や無差別曲線などの概念で)代替可能なものとして扱う。異なる多くの種類の効用を、共通の「金額に換算」して解釈できることになっている(そうでなければ、予算制約線や無差別曲線をすべての財に対して用いるという発想にならない)。

 

人は、社会は、歴史的時間の中を生きている。歴史的時間とは、過去が現在の状態の原因であり、現在が未来を形作るという考え方である。当然のように、経路依存性を考慮することを求めるし、現在を生きる人がどのような選択をするかによって、形作られる未来は変わると考える。経済は、法律・国際条約・財政支出・マスコミのプロパガンダ・文化・生活習慣・科学や技術の進歩などの様々な要素によって、不可逆な変化を繰り返している。

歴史的な時間の概念が示すのは、均衡点は仮に存在するとしても常に動き続けるものであり、しかもその動きが周期的な変動を示す保証もないということだ。このことが、過去の経験から得た法則が将来にわたって当てはまる可能性を著しく下げることになる。スタグフレーション新古典派総合を殺したのも、これが理由の一つ。表現方法を変えると、「経路に依存して均衡点が変わり、均衡点の位置の変化が止まらないのなら、均衡点の概念は成立しない」といったところ。

 

均衡を用いた分析を好む人たちはしばしば、自由貿易・自由市場がすべての人々の生活を平均的に豊かにすると信じている。これは、かなり短期的な視点に立てば正しいかもしれない。しかし、それもあくまで短期的な話。産業革命以降の近現代社会においては、生産に用いるリソース(従業員のノウハウ、工場設備、技術など。言い換えると資本)の蓄積によって、飛躍的に生産性を向上させることが多々ある。そして、資本の蓄積による生産性の向上は、(時間がかかるものの)事実上の上限がない。一方で、交易の自由化と、自由化に伴う便益の増加は、その程度に上限がある。関税は最低でもゼロにしかならないし、(輸出)補助金をつけることも自由市場と自由貿易の否定だ。究極の規制緩和は無法地帯だが、それ以上の規制の撤廃はその概念の性質上不可能である(そもそも市場は、決済を保証する法・行政権力・司法があって初めて機能するものだ)。自由化で生まれる総余剰の増加は、簡単に頭打ちになる。

そもそも、需要曲線(あるいは限界効用曲線)と供給曲線(あるいは限界費用曲線)の交点で均衡して云々という話から、生産者余剰と消費者余剰の概念を生み出すわけだが、「マクロ経済において、生産者が同時に消費者でもある」という発想が抜け落ちているので、生産者余剰が小さくなると消費者余剰もほぼ確実に小さくなることを忘れている。そもそも、消費者余剰が「お得感の合計」と比例する、という発想がすでに間違っている。加えて、デジタル系・プラットフォーム系のサービスは規模の経済が効くので寡占化独占化するのが普通であり、市場を一企業が独占して供給するのが最も供給曲線を低くする条件であり(自由競争の市場が最も効率的だとする思想の否定)、プラットフォーム系のサービスが独占企業で提供されているときは限界費用が下がり続けることが多い。限界費用が生産量の増加とともに小さくなるとき、供給曲線も右肩下がりになり、会計的にも経済学的にも利潤が出ている場合も、生産者余剰はマイナスになる。生産者余剰を生産者の利潤の合計かのように扱えるのは、供給曲線が問答無用で右肩上がりになる物々交換的な市場だけだ。

貿易や市場の自由化は、必然的に経済的なグローバル化をもたらす。グローバル化すればするほど、多くの産業のサプライチェーンが複数の国を経由する。そのどこかで不具合があれば、すべての国に悪影響が波及する*1。自国の政府が関与できない外国で起こった出来事が、国内の人々の生活を左右する。

加えて、貿易や市場の自由化は、進めすぎると、自国の産業を発展させる政府の政策(貿易協定の可否・法改正や財政支出)を使えないようにする。自由化を訴える人たちが、「政府の活動が自由市場を破壊し、資源や労働力や財の効率的な分配を妨害する」と主張するからだ。政府の仕事を悪役にした結果、国内に産業を育成するために行われる研究・開発・設備への投資ができなくなると、残念ながら国内に新しい産業を育てるのはその分難しくなる。関税を下げすぎれば、価格競争力の低い自国の産業が消滅し、何か欲しいものがあったら自国で作るよりも外国から買ってくる、ということになる。その結果、今まで自国で生産できたものが生産できなくなる(それは控えめに言って発展途上国化だ) のみならず、財政支出を継続的に増やして民間に投資と消費を促したとしても、自国で生き残った産業分野でしか、資本の蓄積による産業の生産性を飛躍的に上げる政策がとれなくなる。「グローバル化以前は、財政支出を増やすと民間の投資支出の増加がみられた。投資は失敗に終わることも多々あったものの、全体的に見て、生産性の飛躍的向上をもたらした。グローバル化後は、財政支出で生み出した国内の民間消費の増加が、海外の民間企業の売上を伸ばしてばかりで、国内企業の投資を促すことができず、生産性が向上しづらくなった。」なんてことになりかねない。ちょうど良い水準を超えた貿易や国内市場の自由化は、総需要コントロールを使った長期的な経済成長を阻むのだ。”ちょうどよい水準の貿易や市場の自由”とは、かつて冷戦時代に西側先進国と呼ばれた国々の、政府主導で需要を作り家計の支出と民間企業に投資を促すことで高度経済成長した1940~1970の頃の状態である。日本の高度経済成長も例外ではない。

均衡を多用するモデルが推奨する通りに交易を過度に自由化し、時間がかかる資本の蓄積を怠れば、長期的な生活水準向上は望めない。資本の蓄積に基づく飛躍的な生産性向上を考えるとき、均衡を多用するモデルは使い物にならない。

 

生産性の向上は、供給曲線・限界費用曲線などの大幅な変化とともに、従業員は同時に消費者になることも含めて考えれば、需要曲線や限界収入曲線の変化ももたらす。均衡の議論を用いた効用の最大化を理由に自由貿易・自由市場を善とする人々は、生産性の飛躍的な向上の可能性を無視している。保護貿易・市場の規制は、長期的な視点の下、自国の産業の生産性を飛躍的に伸ばしたり、独占企業のモラルを維持するなどの理由で行われる。そして、国内の人々の生活の(少なくとも物質的な)豊かさは、国内の人々の労働生産性の高さだけが主要因となる。生産のリソースを増やす活動、すなわち投資の効果が表れるまでの比較的短期間を考える場合のみ、自由貿易は人々を豊かにする最適な手段かもしれない(それすら怪しいが)。しかし現実の歴史ある世界において、最初の産業革命以来、人々の生活水準を飛躍的に伸ばしてきたのは、限られた資源・財・サービスの効率的な分配ではなく、より多くて多様な資源・財・サービスを生み出す仕組みだった。限られたパイをいかに効率よく使うかではなく、パイをいかに大きくするかが重要だったのだ。均衡を用いた分析は、過去の決断が現在を創り、現在の決断が未来を創るという発想を、最初から捨てている。後からどんなにイノベーションの研究を組み込もうとしたところで、最初の時点でイノベーションの概念(それはすなわち歴史的時間の概念の一部)を否定したモデルなのだから、均衡を用いたモデルは、少なくとも資本主義の現代にはなじまない。

*1:世界大恐慌アメリカから世界に波及したのは帝国主義に伴うグローバル化の成果であり、アジア通貨危機は国際金融の自由化が主な原因を作った。リーマンショックが波及したのももちろん、経済グローバル化のおかげだ。グローバル化した世界では、どこかの国が不景気に陥ると、その国が輸入する産業のサプライチェーンが経由するすべての国が不景気になりかねないし、サプライチェーンのどこかで生産活動の縮小を余儀なくされると、それ以降の工程のすべての国でも生産活動が縮小する。そしてたちが悪いことに、自分の国に及ぶ悪影響の原因を解決しようとしても、主権が届かない外国の出来事である以上、自国の政府がとれる対策はかなり制限される。グローバル化を進めるということは、主権を手放すということであり、世界経済の不安定化を促すことでもある。まあ、詳しことはわからなくてもいい。短い文章で説明できる話ではないので、ここでは説明しない。