好奇心の横断歩道を創る!

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これだから経済学は使えない。完全競争市場なんてないし、仮にあったとしても非効率。(仮)

経済学は使えないシリーズ一覧

 

経済学において、供給曲線が右肩上がりとされる根本的な理由は、それを認めないと既存の理論が大ダメージを負うからだ。既存の理論が持っている深刻な問題点は複数あるが、少なくとも以下の2つが含まれるであろう。私が短時間考えて思いついたものだから、頭のいい人が時間をかけて考え出すと、もっと沢山あると思う。

・完全競争市場においては、均衡する価格が先にあって、現状の価格を見た生産者がその時々の生産量を決める、という妄想を信じている

・経済学(の主流派)が信じるような限界費用逓増の想定は、たいてい成り立たない。生産者1つ当たりの生産量増加とともに限界費用が下がる場合、唯一無二の生産者が供給する体制を作ることで、単位生産量当たりの生産費用を最も低くできる。限界費用逓減の場合、供給曲線は右肩下がりだ。限界費用が提言する場合、総余剰の最大化を理由に独占が正当化され、「完全競争市場が(総余剰という名の)富を最大化する」「完全自由競争が価格を下げるor価格を安定させることで、消費者の利益になる」と主張できなくなる。加えて供給曲線が需要曲線よりも急激な右肩下がりになって、均衡”点”を考えることができなくなる可能性もある。これらのような理由から、経済学のメインストリームは、自身の教科書レベルの議論における論理破綻を無視すべく、”生産量増加とともに限界費用が下がる可能性”を受け入れない

現実では、生産量を増やすと限界費用が下がり、供給曲線右肩下がりになることも多い。例えば、無形資産に強く依存したデジタル系・プラットフォーム系のサービスは、生産量を増やせば増やすほど生産量当たりの生産費用が下がっていくのが一般的だ。

 

この世界には、量産することで単価を安く生産できる場合が存在する。検索エンジン・ネット店舗・水道・電気などである。ついでに言えば、買い手側も、生産者が少ないほうが、どこから購入するかという意思決定が楽になる。市場は非市場的な仕組みによって支えられていて、プレイヤーが少ないほどその市場自体の運用コストは下がる。もし仮に「費用対効果の最大化」「資源生産性の最大化」「総余剰の最大化」「資源や財を過不足なく配分すること」などが大事だというのであれば、たいていの分野で、寡占に近い状態もしくは独占が、最も効率的ということになるだろう。費用対効果がそんなに大事か?総余剰の最大化がそんなに大事か?って話だけど。そもそも、「総余剰の最大化がみんなを豊かにする」という幻想を本気で信じられるのか?

 

 

完全競争市場が「効率的」とは限らないことは分かった。そもそも論としてよく考えてみてほしい。完全競争市場って、具体的にどこにある?生産者が無数にある市場は、実は同質材を提供していないことに気づいただろうか?そこに地域的制約はないか?習慣や伝統や文化など、経路依存性による影響はないか?偽薬効果みたいな理由で差がついていたりはしないか?......本当に同質材を提供されている市場では、そもそも寡占や独占が普通であり、完全競争市場ではいられない。ついでに言うと、経済学上で同質財の例に出されている産業でさえ、本当に同質と呼べるかどうか分からないものがほとんどではないだろうか?よくよく考えてみてほしい。

本当に同質な財が複数の生産者から提供されるとき、量産して単位量当たりの生産費用を下げることが適応的となる。過激な競争と買収・合併あるいは倒産ラッシュの結果、寡占や独占が起こって当たり前なのだ。あえて強気に言わせてもらおう。

「完全競争市場なんてない!近似できる市場すらない!」

完全競争市場が存在せず、仮に存在していても効率的とは限らず、寡占や独占とともに限界費用逓減をもたらす可能性もあることで、経済学に深刻な問題が発生する。

・供給曲線は右肩下がりになりうる、その結果、需要曲線との交点で価格や量が決まるとの主張が、数多くの但し書きを必要とすることになる(そもそも交点が存在しない可能性もあるし、均衡の実現領域が点ではなくなる可能性もある、その他諸々)。寡占・独占市場の分析における限界費用と限界収入に関しても同様。

・均衡点が存在するかどうかもわからない(実現可能な平面領域があるなど)

・消費者余剰は「お得感の合計」に比例しない

・独占や寡占が起こり、限界費用が逓減する産業分野では、生産者余剰は生産者と関係ない概念である

などといったことだ。そこら辺の話は、これだから経済学は使えない。需給均衡と余剰について(仮) - 好奇心の横断歩道を創る!などで突っ込んでいる。

 

 

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