難しいことを考える必要はない。問いは一つだ。
「あなたは、未来を正確に予測できますか?」
私は無理だ。経済学者にも無理らしい。なぜわかるかって?経済学者が、実業家に対して良いコンサルをするとは限らないし、投機で勝ち続ける人もほとんどいないからだ。もちろん、確度の高い予測ができる場合もある。確かさのために我々は”約束”するのだ。しかし、未来のたいていの物事を予測できないことは変わらない。
そもそも、我々が生きるこの世界では、ラプラスの悪魔以外、未来を正確に予測することができないことになっている。期待値分布ですら、正確に予測できる人はいない(仮にいたとしても、それを反証可能性がある方法で示せる人、言い換えれば、科学的に証明できる人はいない。)
ところが、ニュー・ケインジアン(の少なくとも一部。ニュー・ケインジアンは現在主流の経済学の学派だ。)やリアル・ビジネス・サイクル理論などを中心に、新古典派系列の学派の多くで、合理的期待が可能な経済主体を前提に理論を作っている。何が悪いって、経済学を教える教科書やそれに類する媒体の非常に多くが、この前提を使って議論をしている。いや、正確に予測できるんだったら、そもそも経済学なんていらなくね?経済学者って、ほんとバカ。
もちろん、最近は主流派の経済学の理論の中にも、情報の非対称性を明記するものが多いことは知っている。全く同じことを言い出したのは新制度派経済学だと思うが、それ以前から非主流派の中ではこれに該当する概念が重視されていた。だからこそ、制度が重要だとか、根本的不確実性が大事だとか、言われてきたわけだ。新制度派が作った情報の非対称性とその関連の理論は主流派に取り込まれたが、そもそも同じ問題意識をはるか昔から共有していた非主流派は、その功績を未だに(おそらくは意図的に)無視されている
話を完全合理性の不可能さに戻そう。もし仮に、私だけが未来の事象の確立分布を正確に予測できるのなら、私なら経済学者なんて絶対やらない。投資や投機に参入して死ぬほど稼ぐ。もちろん「予測」が正確だから、当局に目を付けられるようなことにはしない。
もし仮に、ほとんどの人が未来の事象の確率分布を正確に予測できる世界なら、どうして過去の未来予測が外れ散らかしてきたのか、説明してもらわないと。