現在主流の経済学の学派の理論では、「均衡」が多用される。「均衡」を用いた理論には、時間の概念が存在しない。
例として、とりあえず、完全競争市場の需要と供給の均衡を考える。
需要曲線は、市場でその価格が実現した時、どれだけの量の財が取引されるかを示す。取引には時間がかかる。今月これだけ売れました、今日何個売れました、この一時間でこの量売れました、といった方法でしか、取り引きは観測できないし、実現しない。では、需要曲線は具体的にどの程度の時間を想定しているのか?需要曲線とは「欲しくてその購入のために支払うことができる」ことを含めた概念だ。「支払うことができる」というのは、どの程度の時間幅を想定しているのか?経済学では、そんなことをいちいち考えないのだ。考えなくてもいい、成立しない概念でも構わない、というスタンスをとっているのが現状だ。
ちなみに、均衡を用いる需給分析は、普通、「仮想上の時間幅の中で限界費用や限界収益を変化しないものとみなす分析」でもある。仮想上とはどういうことか?現実の経済では、物事は刻々と変化し続けるのが普通だ。一つの取引とその次の取引の間程度の時間幅でも、限界費用や限界収益は変わる。複数の連続する取引に共通の需要と供給の均衡が存在するという想定が、現実的ではない。
仮に需要曲線と供給曲線の交点で均衡するという説明が実用的だったと仮定しよう。言い換えると、一つの取引から次の取引までの時間などの短期間で均衡点が移動することができないということ。すると新しい問題が持ち上がる。古い均衡から新しい均衡に時間をかけて大きく移動とき、その遷移の経路そのものが人々の思考に影響を与え、新しい均衡点の位置を変化させる(一定の速度で徐々に価格が下がれば、人々は、しばらく待てばもっと価格が下がると期待し、買い控えするかもしれない。一方で、一度の急激な価格の下落を見た場合、人々は、今が買い時だと思って買いだめするかもしれない。などといったこと)。外生的な変数の初期値と移行後の値がすべて同じであっても、過去の一定期間が次の一定期間の性質に影響するという経路依存性があるせいで、新たな均衡への移行経路自体が、新たな均衡の場所に影響を与えることになる。
供給曲線に関しても似たようなものだ。
結果、「完全競争市場におけいて、需要曲線と供給曲線の交点で均衡する」という説明には、時間の概念が含まれないこととなった。
限界費用や限界収益の均衡を用いた議論も、それ以外の多くの均衡を用いた議論でも、根本的に時間の概念が含まれないのが現実だ。面倒なので、すべての○○曲線に対していちいち説明する気はないが、そこは、一事が万事。一度よく考えてみてほしい。
経済学が均衡によって物事を説明できると主張した結果、経済学からは現実の時間の概念が失われた。経済学において、時間は、微分方程式を解くための仮想上の存在にすぎない。
現実の経済は、”期待値”を正確に推定することすらできない根本的な不確実性を有し、不可逆な変化を繰り返す存在である。時間の概念を失った経済学には、時間を横断する分析が不可能ではないにせよかなり険しい道のりとなる。そのせいで、経済学の主要な関心は、根本的な不確実性を考えずとも成立する議論である「分配効率」にシフトした。資源の分配、労働力の分配、貨幣の分配、etc. 最高の分配効率を定義し議論するために、経済学は均衡の議論を導入した。分配を考えることは悪いことではないが、経済学に期待されていたはずの仕事は、現実の経済を説明し、現実社会の中長期的な発展を考えることである。時間を失った経済学は、経済成長を考えるための重要な能力までも失ってしまった。「保護貿易を一時的に採用して国内産業を育成し、国際的な競争ができるまで強化されてから保護貿易をやめる」という、過去に多くの成功例がある方法を、多くの経済学者が忌み嫌うのも、偶然ではない。彼らは時間を失ったことで貴重な資源の分配に偏重し、貴重な資源を大量生産する方法や、不慮の出来事に見舞われても生産量を安定させるような方法を探ることを、軽視しすぎるようになってしまった。
資本主義*1社会は、効率の良い資源分配(石油や水だけでなく、時間や人間の労働も、ここでは資源)ではなく生産力の強化によって、人々の生活水準を向上させてきた。生産に用いる資本を強化すること優先するイデオロギーである”資本主義”を今後も継続したいのであれば、平等と効率のトレードオフなどと真顔で主張する経済学に別れを告げるべきだ。