好奇心の横断歩道を創る!

自分の思考をラバーダック・デバッグするためのブログ

新自由主義っぽい感性は、学校教育の産物ではないか?という憶測

下に書くのは筆者の妄想だと思って読んでほしいです。

 

高校までの学校には、「専門分化した人たちが寄り集まって、1+1が2よりも大きくなるような活動」がない。専門的な訓練ではなく、標準装備の訓練をしている。ので、持ちつ持たれつの感覚や、価値のある仕事とそうではない仕事があるという感覚が身につかない

 

高校までの学校には、全員に同じ杓子定規(勉強、運動、スクールカースト等)を適用して出来不出来を評価する生態系が出来上がっている。「同じ条件を与えられているのだから出来の差は本人の責任だ」という思想が育ちやすい。家庭の事情に左右されないようになどという配慮が行き届くほどこの手の傾向は強まるかもしれない。実際には、わかりにくいだけで同じ条件ではないのだから、始末が悪い。機会の平等が与えられるほど、才能の差が際立ちやすくなる、などなど。

生まれつき恵まれなかった人たちや、本気で何かを達成しようとして夢破れた人たちのほうが、才能と運(本人にはどうしても制御できない要素という意味で)の威力の大きさを肌で感じていると思う。はじめの一歩の会長が教えるように、「努力した者が全て報われるとは限らん しかし! 成功した者は皆 すべからく努力しておる! !」のだ。

恵まれた人であっても、謙虚な人や興味の幅が広い人は、新自由主義っぽい価値観から距離をとっている人が多いように見える(主観)。一方で、心理学的な意味でナルシストっぽい人や、興味の幅が狭い人(ビッグファイブの空間では4つか5つか忘れたけどいくつかのクラスターができていて、最も大きいクラスターは開放性が低い。って話があったような。記憶違いかも)は、新自由主義っぽい感じの思想の持主が多い印象(主観)。

 

エリートに特有の冷たさってのがもしあるなら(そゆーこと言ってる人がいたから。自分自身ではピンと来ていない)、原因はこの辺りにあるかもしれないと思う。「事実はなぜ人の意見を変えられないのか?」に書いてあったのかな?覚えてないけど、誰かの助けを必要だと感じたとき人を信頼しようとするのが人間。この辺が思想に影響する可能性はある。言い換えれば、恵まれている人ほど利己主義に走りやすくなる可能性がある。

 


なぜ賢いとされる人たちが次々と新自由主義的な思想に染まっているのか?教養の幅が広がれば広がるほど新自由主義から距離をとりそうなのに。なぜ?

という疑問に答えるためのアイデアの一つ。まぁ、主観の嵐なんだけど。