好奇心の横断歩道を創る!

結論とは、考え疲れたときに至る場所である

昔のオタクの生態系は、”多様性を受け入れる社会”のお手本なのではないか?

昔のオタクは、メジャーな文化(というかテレビに教えられる文化)に乗れない人たちであり、オタクという呼称は、何を考えているのかわからない頭のおかしい奴らという侮蔑表現として始まった。

時間の経過とともに、オタクは、あまりに多様な趣味集団に成長した。マジョリティーから承認されない趣味を持つすべての人に、オタクのレッテルが張られた結果だ。性犯罪者がオタクだったと報道されたことにより、オタクというだけであたかも性犯罪者のように扱われる時代もあったとかなんとか。オタクではない性犯罪者もいるし、オタクのほとんどは性犯罪者ではないというのに。不憫。

 

ところで、オタクという概念が普及した当時のテレビは、主婦層の視聴率を重視していた(夫は仕事でテレビ見ないし、子供もなんやかんやで主婦よりテレビを見ない。しかも家庭内では妻がチャンネル決定権を持つことも多い?)。だから、テレビが教える正しい趣味嗜好に乗れない人は男に多かったのかもしれないし、テレビ番組が賢くない人向けに作られるものなので賢い人ほどテレビ主導の文化になじめなかったのかもしれない。とにかく、オタクは、「見た目が悪く、第一印象も悪く、同時に知的で探求心が強く、博愛主義的にもかかわらず自分の趣味こそが至高だと信じて狂信的な情熱をささげ、そしてなぜか男が多い」というヘンテコな特徴を共有する集団であった。もともと差別されていた人たちだからなのか、それとも趣味に生きる「頭のおかしい」人たちの生まれつきの性格なのか、オタクは自分と違う趣味嗜好の持ち主を差別する傾向が低く、異なる文化圏に対して非干渉的でもあった。あくまで、オタク気質≒オタク という図式が成り立っていた時代の話だが。(オタク気質な人とは、自分が好きなものを他人からの評判にかかわらず好きになり、マニアになり、その文化の維持向上のために半ば義務感を持って活動する人のこと。)

 

 

「女性やLGBTを出演させればアカデミー賞を取りやすくなるなどといった画一的な価値観をメージャー文化に導入する」

といった類の方法は、多様性の尊重ではない、と私は考える。多様性の尊重された状態とは、性質の異なるコミュニティが乱立できる状態であり、それはウェブの普及によって徐々に”普通”が消失しつつある現状や、ウェブ普及以前からのオタクの生態系のような状態だ。

「様々なマイノリティが、それぞれ勝手に寄り集まって勝手に創作して勝手に共有して勝手に仲間内で評価し合う」という様に、コミュニティ自体に多様性があり、異なるコミュニティが不可侵条約を結んだ状態

こそが、抑圧を減らしつつ多様な文化を尊重することができる合理的な方法ではないだろうか?

例えば、江戸時代の江戸っ子の暮らしをベースに創作されたフィクション映画を作りたい場合、見た目が違う人種の俳優を積極的に採用する理由など無い。むしろ見た目日本人ばかりでないと違和感しか持てない。オタク文化はそういった偏り方を肯定してきた。本当に多様性とやらが大事なら、一つの映画内で俳優の人種や性別が偏っていたとしても、その映画を冷遇するべきではない。

~~規制で個人の自由を縛ることで社会全体でできることを増やし、結果的に個人は、より自由を謳歌できるようになった。 というおなじみのパターンは、常に成り立つわけではない。~~

 

 

少数派が認められるのは、多数派がその存在を認めているからである。多様性を尊重するというスローガンは、多数派が承認する少数派の範囲を広げようという意味であり、すべての少数派を受け入れようという意味ではない。それも当然で、まっとうな社会を維持するには、承認する少数派の許容範囲を一定以内に抑えなければならない。治安の維持が、しばしば、許容範囲を規定する際のネックになる。極端な話、殺人衝動を持つ人の個性を尊重する社会は良い社会とは言えないと、だれもが知っている。