好奇心の横断歩道を創る!

自分の思考をラバーダック・デバッグするためのブログ

知識を得るために、なぜ本を読むべきなのか、インターネットではなく。それから、知識のネットワークの拡大の過程について。私の仮説。

力不足で、抽象的かつ論理的とは言えない文章だが、今の私の考えを書く。全体的な傾向の話をしようとしている。

 

 

一部の素晴らしいページを除き、知識・情報を売りにするほとんどのネット上の情報は、検索需要に対応して、あるいは短時間で消費できる娯楽として、作られる。

それらは、知識のノードを与える。賢くなった気にさせるし、実際、忘れるまでの間、あるいは抽象化された記憶が残る間、知識は増える。だが、ネットの情報は、エッジを提供しない。エッジを提供することを、ほかならぬユーザーが望んでいないため、コンテンツ提供者もエッジを与えようとはしない。ノード2つ分の情報を提供したり吸収したりする労力は、ノード間のエッジを一つ増やすことと比べると、ずいぶん少ない。

 

本は、(百科事典っぽい形式の一部の書籍を除き)一般的な傾向として、値段が高ければ高いほど、ノードの提供よりもエッジの提供に熱心な傾向がある。金を払ってまで読むモチベーションの高い顧客に、最適化された情報を出そうとした結果、思考体力が必要なエッジを増やす作業をも、担おうとするのかもしれない。

世間でConnecting the Dotsと呼ばれるものは、その人自身がすでに持っているノードとノードがつながることを指す。ノードはエッジでつなげられて初めて、連動した知識になる。書籍は、著者自身の持つエッジを、読者が追体験しやすいように構成されていることが多い。エッジの本数が増えると、知識はネットワークになる。ネットワークは、ノードが単体では表現できないニュアンスを、言い換えると言語化や定式化が非常に難しいニュアンスを、我々に提供する。

 

討論で勝つのはノードを多く持っていてノードを検索するのがうまい人、一方の議論がうまい人は広くて密なネットワークを持つ人。そんな印象を個人的に持っている。私が、論破して喜んでいる人を内心軽蔑しながら、一方で議論がうまい人を尊敬しているのは、どれだけ論破がうまくても、その思考スタイルを使って真実に近づくことはできない、と思っていることが理由の一つ。それぞれのノードに適切なラベルを大量に張る事が、討論と議論で共通する基礎体力になる。

 

エッジには、アブダクションに属するものと、演繹法に属するものと、帰納法に属するものがある。3つとも得意なことが理想的かもしれないが、誰にでも得意不得意はあるし、取り組む課題次第では大きく偏ることが最適解だったりする。

Connecting the Dotsは帰納法アブダクションやそれらに類するエッジが新しく作られることを指す。アブダクションには認知バイアスが強く効いていて、人が言葉や概念を理解するために、アブダクションが非常に大きな役割を果たしている(母国語を扱えるようになるために、帰納法を用いたら、学習速度が非常に遅くなると思う。人が言葉を素早く覚えられるのは、人に共通の認知バイアスに沿って言語を作りったり意味を推測するから。多分。)帰納法を進めるには、ノードに適切なラベル(ラベルもノードの一つ)をどれだけたくさん貼る事が出来るかと、どれだけ多くのノードを手に入れられるが肝。帰納的なエッジで作られた二部グラフ(片方がラベルで構成されている)が統計のイメージ。因果推論や物理法則を発見するためには、二部グラフを作るだけでは意味がなく、仮説・モデルがどうしても必要になる。仮説やモデルを作るにはアブダクションが必要になる。

演繹法に属するエッジには”向き”がある。向きに沿ってひとつづつノードとエッジをネットワークの一部に組み込むことを、「理解する」と呼ぶことが多い。演繹法やそれに類するエッジだけで構成されたネットワークのことを、「積み上げ」と表現することが多い。

学校で習う数学は演繹法の訓練の側面がある。

アナロジーは、説明しやすく再現しやすい、新たにアブダクションに属するエッジを加えるための試行錯誤の方法として、メジャーである。

論理的思考という言葉を使うときは、多くの人は、帰納法演繹法で構成されたネットワーク、あるいは演繹法だけで構成されたネットワークを想定している。

直感・直観・大局観は、ネットワークから生まれる。

思い出すことと思いつくことは、非常に似ている。思いつくためには、多くを覚えることが有利に働く。