好奇心の横断歩道を創る!

自分の思考をラバーダック・デバッグするためのブログ

証拠なんか無くても分かることは有るって話と、データを眺めるだけでは理論は作れないって話。

 

証拠なんか無くても分かることは有るって話

水は透明だ

と誰かが言い出したとしよう。これは正しいだろうか。

おそらく半分くらいの人はこれに同意するだろう。確かに水は透明だ、と。もちろん、少しひねくれている人は、透明じゃない、青だ、というかもしれないし、少し物理学を知っている人は、「透明とは可視光領域の透過率の話ですか?赤外領域は?紫外線は?X線γ線まで含めるんですか?含めるんだったら透明じゃないですよね」なんて言い出すかもしれない。ただ、大半の人は、「水は透明だ」という言葉のニュアンスをくみ取り、間違いではないと判断するだろう。

では大半の人たちはなぜ「水が透明だ」という主張を受け入れるのか。サイエンスやネイチャーに証拠を含む論文が掲載されたからじゃない。証拠なんてあるはずがない。だって、主張自体に明確な定義がなくて反証しようがないんだから。それでも私たちはニュアンスをくみ取り、同意することができる。

何かを主張するために、必ずしも証拠は必要ない。価値観の話をするときなどがそうだ(だからこそ煮え切らなくて面倒なのだけれど)。証拠が必要になるのは、それ以外に頼りになる有力な指針がないときに限られる。世の中で議論を呼ぶ物事の多くが、証拠くらいしか頼れるものがないってのも事実だろうけど。

 

 

データを眺めるだけでは理論は作れないって話

理論はデータの奴隷ではない。データからはひとつの理論しか生まれない、とは限らない。理論で使われる変数そのものが、データとして計測できることはほぼない、といってよさそうだから。

 

下手だけど、たとえ話をしてみる。

理論の検証のために、速度を知りたくなったとしよう。距離と時間を測ったデータを、距離を時間で割るというモデルに突っ込めば、それなりの精度で速度が計測できる。それを理論の検証に使えば良い。

距離と時間をどのように測るべきなのか、どの程度の精度で測るべきなのか、そのあたりは理論とデータをつなぐモデルや理論そのものの性質次第。理論は、より良いものが生まれてくる可能性が、(ものによってはとてつもなく小さいとしても)存在する。