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現代の「国家権力」「財政主権」「通貨」「生産力」の関係について

赤字は誤りだと思っている部分。あと、あまり確かじゃない話が多く含まれている。その点ご留意の上。

 

 

はじめに

この記事で考察すること

 財政主権と為替制度、財政主権と通貨の主権、国家権力とインフラの間には、それぞれ強い結びつきがある。というのが、この記事の主張。現代社会の仕組みの一側面を説明できると思う。

この記事のキーワード

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重要かつローカル?な単語の定義

 この記事で使われる単語のうち、重要であり、しかも、この記事や一部コミュニティでしか共有されない可能性が高い定義をとる言葉を、一覧しておく。日本語が通じる限りどこでも同じ定義になりそうな言葉は、ここでは触れない。

 

通貨

 債務の返済のために使われるすべてのハードウェアと、通貨単位を持った情報。預金や紙幣やコインだけでなく、江戸時代なら米、古代のメソポタミアなら麦、中には塩が用いられたケースもある。現代日本では、マネーストック(M3)=通貨、くらいの感じでOK。

 

(現代)貨幣

 通貨の一形態であり、債務と債権の記録によって発生するもの。難しい言い回しになってしまったが、現金・預金・小切手・手形だと思ってもらえば十分だ。(ほかにもありそうだけど、すぐには思いつかなかった)

 10円玉などの硬貨や江戸時代の米などは、債務と債権の記録という定義には当てはまらないため、この記事では貨幣と呼ばない。

 

インフラ

 この記事におけるインフラという言葉は、以下の2つの意味を満たす。

・ほとんどの人が同じモノやサービスを直接的あるいは間接的に使っている

・そのモノやサービスが生活の基盤となっている

 例えば水道を使う場合、水道そのものが直接的なサービスと定義される。水道を整備するための道具を作った仕事や、水道管の材料を作った仕事などは、間接的なサービスと定義する。サプライチェーンの消費段階は直接的なサービス、サプライチェーンの消費以外の段階は間接的なサービス、と思っていれば問題ないはず。生活の基盤になっているとは、それ抜きでは露骨に生活水準が下がるサービスのこととする。

 2021年現在だと、水道・道路・電力網などはもちろん、洗濯機や住宅もインフラであり、スマートフォンもギリギリ、当記事ではインフラに含まれる。一般的な意味のインフラよりも広い定義になると思う。

 

 

 

考察

通貨がその地域で流通する理由について

物々交換の円滑化説は間違い

 通貨が流通するのは、不便な物々交換を円滑化するため、ではない。物々交換の円滑化説を否定する理由は単純で、「一つのコミュニティの内部で物々交換をベースに成り立つ原始社会の存在証拠は、今のところ確認されていない」という、文化人類学?や考古学の研究成果があるからだ。よそのムラ・都市・国との交易においての物々交換は確認されているが、一つのムラ・都市・国の内部の取引においては、狩猟採集民のようにコミュニティ全体で共通の財産を分け合うか、贈与しあうか、物品交換するか、”債務と債権の記録=またの名をツケ”としての通貨を使う場合がほとんどだったようだ。物々交換がインフラとなった社会が存在した証拠は、通貨が普及する以前の時代では確認されていない*1

 物々交換がその地域のインフラになった原始社会は存在が確認されていないが、物品交換経済は、実在した。物品交換経済とは、それそのものが消費の対象である物品が、通貨として流通する経済である。たいていは、物品の一定の重さを通貨単位としていた(体積を基準にすることもあったらしい)。この場合、通貨に採用された物品は、自分や扶養者による消費の見込みがなくても、それを支払い手段として受け入れた。物々交換との決定的な違いはそこにある。物々交換では、余っているものを渡して不足しているものを手に入れるが、物品交換では余っているものを渡して余っているものを受け取る。

 

贈与交換と物々交換の違い

 贈与経済は、一見、物々交換のようにも見えるかもしれないが、本質は異なる。物々交換は自分が得するための取引であり、贈与交換は社会的なつながりによって生じる交換である。

 物々交換は、得することを目的する陣営間の取引である。片方が「得しない」と判断すると、自分の持ち物を他人に渡すことはない。ドライかつ、しばしば殺伐とした取引だ。

 「倉庫に大量の小麦を持て余している人がいる一方で、それと同時に餓死者が発生する」などという現象が、過激なレッセフェールの下で幾度となく発生してきたが、物々交換経済を実現しようとする場合、これと似た問題が常に付きまとう。一食分の牛肉が欲しい人と、一年分の衣服が欲しい人の取引が成立したとして、現実的にはどういった取引が行われるべきなのか?無事取引が成立した場合、残された牛の死体はどう処理するべきなのか?物々交換の相場が存在しない場合、交換レートを毎度交渉するのか?とても実用的な経済体制とは言えない。物々交換経済などという不便極まる経済体制が、そもそも実現するはずがないのだ。物々交換が不便だから「交換用商品」として通貨が導入されたのではない。物々交換経済そのものが(少なくとも確認できる範囲では)存在しないのだ。

 対して贈与交換は、気心知れた仲間とシェアし、絆を確認・維持・強化するという意味合いが強い。自分で消費しない余り物は特に積極的に、贈与に使われる。牛一頭を絞めて食す時、コミュニティに十分な人数がいれば、皆でその肉を分け合うことで、腐らすことなく消費することができる。贈与交換経済は、昔から当たり前のように存在したようだ。現代にもそのミームの末裔が生き残っていて、「お中元」や「田舎の実家に帰るとコメや野菜を受け取る」みたいな話が存在する。贈与を受けると、しばしば、お返しの義務感が生じる。義務感は時間差を伴う取引、すなわち信用取引の誕生の土台になったのかもしれない。通貨が発明され、譲渡可能な付けの技術が発達すると、贈与から生じるお返しへの義務感から解放される。通貨は、後ほど述べるように、社会的なつながりの力を使って流通するようになったが、通貨と市場経済の普及自体は社会的なつながりを切断する機能を持つ。

 

みんなが使っているからではないし、共同幻想を抱いているからでもない

 通貨が流通するのは、皆が使っているからではない。”皆が使っているから説”は、そもそも説明になっていない。なぜ皆が使うようになったのか説明してこそ、意味があるというものだ。「アダムとイブが使ってたんだ!」なんて言われたら、「そうですかー」としか答えられないが。皆が使っているから説では、江戸時代から明治時代にかけての通貨単位の切り替えすら説明できない。

 共同幻想が通貨の流通を維持していると主張する人もいる。これも説明になっていない。

 皆が使っているから使うという発想は、それで買い物ができるから使う、という生活に根差した感覚を反映しているのかもしれない。説明にはなっていないが、その発想に陥るのは当然なのかもしれない。私は嫌いではない。

 とはいえ、一度流通するようになった通貨がその後も流通し続ける理由には、皆が使っているから、もアリ。通貨の乗り換えは社会全体に破壊的な影響をもたらす可能性があり、それなりに抵抗が大きいし、習慣は簡単には変わらない。

 

歴史を通してみる、通貨の種類と、共通する本質

通貨は3つに分類できる。

1,麦、米、塩など、消費されることもある物品

2,コイン、株式など、消費の対象ではないモノおよび情報

3,預金、紙幣、小切手、債券など、債務と債権の同時発生によって生じた、譲渡性のある債権を表すモノおよび情報

である。

1の特徴は、物品自体が消費の対象になることがあるということ。ハードウェア自身の消費需要が担保されている以上、そのハードウェアが「無価値」にならないことは保証されている。このタイプの貨幣は商品貨幣と呼んで差し支えない。

2の特徴は、消費の対象ではないし、誰かがの負債として誕生するのではないということ。このタイプの貨幣も、商品貨幣と呼べる。

3の特徴は、債務と債権の同時発生を伴うということ。俗にいう信用創造の対象となる情報もここに含まれる。このタイプの貨幣は信用貨幣である。これ以降、この記事における「貨幣」という言葉は、3を意味する。

 

3種類に共通の性質も存在する。それが通貨の本質と言って差し支えないだろう。その共通の性質は、以下の2点だ。

・「決済するときに使われる単位である」こと。自身が消費の対象である1ですら、通貨として使用される際は、決済手段として使用されている。

・決済単位として使用することを強いる何かしらの存在があること。徴税を行う権力者かもしれないし、通貨として用いられるという習慣や確信的な期待そのものかもしれないし、それ自体が商品としての需要を持つからかもしれない。

 

発生した債務の弁済に、債務者のいない実物資産を使うのが1および2で、債務者のいる債権を使うのが3。

 

現代式の通貨の誕生まで

 通貨の本質は、債務の解消手段として用いられるハードウェア及び情報である。これを説明するために、少しだけ回り道させてほしい。

 狩猟採集民族として生きていたころの人類は、すべてをシェアする生き方をしていたとされる。狩りで肉を手に入れたらみんなで分け合う。住居も協力して建てる。性的なパートナーですらシェアする。ピラミッド型の権力構造が作られたのは、(イモやマメではなく)穀物の栽培に依存した生活形態をとるようになってかららしい。穀物は「徴税」によって独占できる作物であり、だからこそピラミッド構造を持つ国家の誕生を促した。逆に言えば、狩猟採集生活では、生活に必要な物資は母なる大地から拝借するものであり、たかが人間ごときに独占できるものではなかった。同様に、芋や豆を栽培する文化圏でも、食料の独占は難しかった。イモ類は特定の季節に収穫するものではないし、地中に隠すようにして保存することもできるので、徴税による独占ができない。豆類も、特定の季節に収穫するものではないので「確定申告」させることができない。特定の季節に収穫され、生産量が徴税官にも簡単に判断できる穀物の栽培に依存した地域で、食料の独占と国家誕生が可能になった。(と言いたいところだが、シュメール文明などの初期の都市国家が、権力者が平民や奴隷から生産物を徴収する統治機構をとっていたと考えるのは、早とちりかもしれないらしい。案外、ある種の平等主義がいきわたった都市国家が、社会を安定させるための非常食の備蓄として、民主的な意思決定のもとで徴税していたかもしれない。デビッド・クレーバーの書籍「万物の黎明」を読む途中で改心した。2024年2月2日追記。)

 穀物生産に依存した地域で初期の国家が発達し、ピラミッド構造が作られ、国家運営の中で徴税・司法・警察権力などに該当する制度も発達した。実は、「数字を含む文字は、宗教的な儀式や農耕に必要な天文学のためだけでなく、徴税(課税対象は必ずしも通貨ではない。農作物や労働や兵役義務を含む)を遂行するための会計技術として発達した」との説が有力視されている。国家が発達し、人口が増え、強固な権力ピラミッドが生まれ、分業化が進み、穀物その他の品目の独占と時間差配分が可能な社会になると、贈与による生活習慣は衰退した。贈与経済では、誰が誰にどの程度の貢献したかを、周囲が知っている必要がある(把握できなくなると、タダ乗りが横行する)。人口が増えると、客は顔見知りの常連だけではなくなるので、貸しや借りを人の記憶ではなく証拠として残る媒体に記録しておく必要が出てきた。贈与経済の衰退と同時に、債務と債権の記録の需要が高まった。

 徴税業務のために発達した文字や数字が民間にも降りてきた*2ことで、債務と債権の記録=契約書も残せるようになった。確かメソポタミア文明だかシュメール文明だかの粘土板だったと思うが、「農夫が飲食店での食事の支払いを、小麦の収穫期に小麦を支払う約束でツケにしていた」ことを示す資料が現存しているらしい。つけ払いに物品を用いていたとすると、原始通貨の単位は物品の量や質を表すものであって、現代社会のような通貨単位ではなかったことが想像される。

 ある程度賢い債権者なら、自身の債権を第三者に譲る代わりに何かを受け取る、という方法を思いつくだろう。ただ、債権者と債務者の2者間の関係に過ぎない債権を、第三者に振り替え、通貨として流通させるには、通貨単位がコミュニティ全体で統一され、受け入れられる必要がある。

 「通貨が最初に普及したのは、文字や身分制度や生産管理体制が真っ先に発達した大都市ではなく、比較的人数が少なく平等な社会を築いていた部落だった」という説がある。大都市を有する文明では、高度な生産管理体制が構築されていて、中央当局が食料やそのほかの生産物の一部を徴収し、集めた物資を再分配する、という経済だった。このような経済では、小麦の量の表現には小麦専用の単位を使い、魚の量は魚専用の単位を使い、反物の量は反物の単位を使うといったように、徴税において品目に固有の単位を使っていた。中央当局による生産管理が行き届いている経済では、異なる品目に共通の通貨単位を用いる必要がない。むしろ、品目毎に固有の単位を使って徴税するほうが便利だ。都市や原始国家を運営するための租税は、貨幣の誕生の条件である文字や数字の発明と普及を後押ししたが、都市や原始国家には通貨導入の動機となる生活習慣が存在しなかった。一方で、”野蛮人”の社会では、中央当局の指示を仰ぐことなく贈与が行われており、しかもコミュニティ全体が顔見知り同士なので共通の価値観が導入しやすかった。ここに、都市から文字や数字が輸入され、通貨誕生の条件がそろった。つまり、管理が緩い経済体制があり、コミュニティ全体で”通貨単位”を共有しやすく、通貨の運用に必要な文字と数字が輸入された結果、田舎で最初に通貨が流通し始めた、ということだ。

 2者間の債務と債権の記録が、コミュニティ内で共有された通貨単位を用いることで譲渡可能な債権に成長した。これが通貨の起源とみられている。

 ただ、債権が譲渡可能になるためには、単位の統一だけでなく、支払いを強制させる仕組みも必要だった。支払いを強制する仕組みが機能しなかったら、すべてをシェアする狩猟採集時代からの伝統的経済体制か、各自が生活必需品を自給自足する経済体制か、地域コミュニティ内での贈与経済体制か、ソ連のように実物の徴収と分配を公的機関が行う経済体制を、維持せざるを得ない。

 地域コミュニティが発達した場所では、支払いをしないとハブられるので、支払いを強制する力がある。村八分はめちゃ怖い。また、国家は徴税権力・司法権力・警察権力を持っていた。広い領土内で通過を流通させるのに必要な強制力が存在したということだ。通貨は、地域の社会的なつながりや国家権力のおかげで決済手段として保障され、流通するようになった。

 

国家権力が通貨を流通させるというMMTの説明は、通貨の流通の十分条件を示すものである

 MMT(Modern Monetary Theory : 現代貨幣理論)では、現代の法定通貨が流通しているのは国家の徴税などの権力のおかげだ、とされる。つまり、

中央政府が、誰か(以降Xと呼ぶ)に税を課すと、それの支払いのためにXは貨幣を求め、X自身の仕事の対価として貨幣を集めようとする。Xから財を手に入れたりXの労働力を利用したい人(以降Yと呼ぶ)は、Y自身が税を課されていなかったとしても、Xに支払うために貨幣を手に入れようとするだろう。市場経済は取引関係のネットワークだから、課税対象ではない人も、貨幣を求めることになる。

貨幣流通を開始するために必要だった課税の方法は、消費税や所得税のような貨幣単位で表現される収益と費用を基にした方法ではなく、人頭税や住民税といった、生きているだけで、そこにいるだけで支払いの義務が生じるような方法だったはずだ。そうすれば、贈与交換経済を生きていて中央政府が定めた単位による貨幣を必要としなかった人たちも、貨幣を手に入れる必要に迫られる。義務とは、権力者が権力を行使することによって生じる一種の暴力だ。果たさなければ痛い目を見る可能性が高い。

貨幣の需要を作った状態で、国家は貨幣を報酬として、自身のプロジェクトで支払いに使用する。

 

貨幣を納めさせるにはそれより多くの量を事前に民間にばらまいておく必要がある。例えば現代日本の政府は、「日銀にとっての円建ての債務」を、税の支払い手段として認めている。たいていの民間の経済主体は日銀や財務当局を相手とする口座を持っていないので、「日銀にとっての円建ての債務」を収めようとしても、直接納めることはできない。日銀に口座を持つ金融機関に間を取り持ってもらう形で、「日銀にとっての円建ての債務」を納税している。

政府が税を受け取るためには、それ以上の金額の「日銀にとっての円建ての債務」を事前に民間にばらまいておかねばならない。具体的には、財政支出に伴って増加する「日銀にとっての債務」の一部を、納税によって回収している。

日常生活で使われる銀行預金は、「日銀にとっての債務」と同じ単位であらわされ、交換レートが同じになるように保証された、「民間銀行にとっての債務」である。たいていの経済主体は日銀に口座を持たず、その上、現金だけでは色々と不便なので、「日銀にとっての債務」との交換レートが一定だと法的に保証された預金が、広く支払いに使われている。預金を直接納税しているのではない。

『税の支払い手段として需要を期待され政府当局や金融機関の間で流通している「日銀にとっての債務」』を手に入れるための手段として、「日銀にとっての債務」と交換レートが一定に保証された預金に需要が生まれる。われわれ民間人同士の決済手段には主に預金が用いられている。

という説明だ。ただ、MMTは、徴税権力が通貨を流通させる唯一無二の力、とは主張しない。あくまで、「現代の貨幣は国家の徴税をはじめとした貨幣回収能力に裏打ちされて流通している」と主張しているだけだ。現代貨幣理論いうネーミングは、十分条件としての性質を端的に表現している。

 MMTによる貨幣の説明は、過去に遡って全ての通貨を説明可能だとは主張しない(それでも、MMT的な貨幣の理解は、歴史上のかなり多くの通貨を説明可能である。権力の力を借りずに流通する通貨は、仮に存在していたとしても、相当珍しい)。考古学的な証拠ではとらえることができない貨幣や通貨が存在したという可能性もあるし。ちなみに、貨幣ではない通貨、すなわち誰の債務でもない通貨は、例えば金貨のような形で古くから存在していたし、今も硬貨などの形で現存している。日本円の硬貨は債務者が居ないので、国家権力がその流通を支えているにも関わらず厳密には貨幣ではない(通貨の一種、補助通貨)。ビットコインは、少なくとも表向きには国家権力に強制されていないことになっている。貨幣ではない。

 

多くの時代や地域で、貴金属が通貨に用いられた理由

 歴史上、世界各地で金属が通貨のハードウェアとして採用された。形を自由にできる&短時間で(情報保持という意味で)劣化しないことが、通貨のハードウェアには求められる。貴金属や銅はこれを満たしていた。だからこそ、貴金属が各地で通過として使われた、というのが一つ目の側面。貴金属が通貨のハードに選ばれた理由は他にもある。「各時代・世界各地の権力者が貴金属を求めたため、古今東西に貴金属の需要があった」という側面だ。いつの時代もどの地域でも、権力者は光る装飾品が好きらしい。権力者が集まるコミュニティでの贈与交換のほかにも、賄賂としても使えたはずだ。(法的に禁止されていたとしても)貴金属を含むコインを鋳造しなおすくらい、やる人はやる。

 「民主制都市国家の政府=ポリスが、敵対する特権階級を意図的に嘲笑する為に、権力者の間で贈与交換される貴金属を通貨にして、一般市民の間で流通させた」というエピソードも残されている。

 近世までは、貴金属が広く通貨として用いられていた場合でさえ、「貴金属の量がコインの価値を担保するのではなく、コインに刻まれた模様(=情報)がコインの価値を決める」という考え方が主流だった。いわゆる”名目主義”である。そのため、貴金属含有量が異なるコインや、端が盗削されたコインも、その地域の通貨を承認している権力者の権力が安定している限り、額面通りに取引に使われていた。通貨には、例えば石や紙のように、金属以外の媒体も広く使われていた。現代風に言えば紙幣や通帳や小切手といったところか。名目主義だから、情報の保存や伝達に都合が良ければ、媒体は何でもよかった。近世までは。ところが近代以降~金本位制が主流ではなくなるまで、貴金属が通貨の価値を担保するという考え(=”金属主義”)が主流になった。なぜだろうか?

 

金属が通貨の示す価値を担保するという”金属主義”の源泉

 近世から近代にかけて、名目主義から金属主義に覇権が移動した。以下のような歴史的経緯からだ。

 時の権力者は、新たな硬貨を鋳造する際、貴金属の含有量を時間とともに減らしていった。「貴金属の量に限りがある一方で、硬貨の流通量を増やそうとした結果」であり、また、「名目物価が上昇するにつれ、硬貨に使われる貴金属の価格が硬貨の額面よりも高くなる傾向にあり、硬貨をを鋳造しなおして金属として売る人が現れたから」だろう。とにかく、新たに発行される硬貨ほど貴金属の含有量が少なくなった。貴金属含有量が少ない新しい硬貨は、古い硬貨と比べて(少なくとも同じ体積ならば)軽くなる。

 また硬貨は(特に柔らかい金貨がそうだが)、使用されるほど端から欠けてしまったり、硬貨の端を意図的に削って金儲けする人がいたりして、硬貨は時間とともにその体積を小さくしていった。硬貨は時間とともに小さく、軽くなる。

 権力者*3は、削られたコインの存在や、コインを削って偽金づくりなどに使う人の存在を嫌い*4、対策をとるようになった。税金を集めるときに硬貨の重さを測り、より重たい硬貨を受け取るようになったのだ。端が削られていないかチェックするのではなく、硬貨の新しさをチェックするのでもなく、重さを測ったのがポイント。一枚づつチェックするのは手間だったのかな。とにかく、重さを測る方針の下では、軽すぎる硬貨を納めた者は、硬貨を削ったと勘繰られるリスクや、そもそも納税手段として許可されないリスクを負うことになる。人々は、できるだけ重たい硬貨を納めようと努力するようになった。その一方で、国王は新たな硬貨を発行する際、貴金属の含有量を減らしていった。

 市場では、貴金属含有量の違いに起因する、重たい硬貨と軽い硬貨が入り混じることとなった。納税者は、「重たい硬貨でないと納税に使えないかもしれないし、軽い硬貨を納めれば端を削ったと思われて最悪の場合重罪に処されるかもしれない」と考える。なんとしても重たい硬貨を手に入れたい。人々の間では、硬貨の重さをかなり正確に測ることができる秤が出回り、皆が重たい硬貨を欲しがるようになった。

 税金の支払いのために皆が重たい硬貨を欲しがり、貿易では貴金属を含む硬貨が使われる。そんな状況を見た人々は、「貴金属の価値が通貨の価値を担保している」という金属主義を信じるようになった。実際貴金属がもてはやされていたのだから、当然のことかもしれない。ともかく、人々は、「通貨の起源は物々交換の円滑化のために用いられた交換用商品である」という、誤った解釈を信じこむことになる。

 

通貨が流通する本当の理由

 通貨がその地域で流通する理由は何か。その答えは、究極的には、「その通貨の需要があるから」だ。なぜ「需要がある」のか?

 よく言われるのは、税や罰金をその通貨で払うため、というもの。租税貨幣論などと呼ばれる。もちろん税や罰金を払うためというのも重要な需要だ。徴税は権力によって成し遂げられるし、特定の通貨を使わせるのも権力だ。権力による需要という側面は、間違いなく存在する。

 通貨を流通させるための重要な需要は、ほかにもある。それは何か?「その地域内に、サービスの需要とそれに応える供給力があること」だ。

 以下、権力が通貨を流通させているという側面と、サービスの需要に応える供給力が通貨を流通させているという側面に、それぞれ言及する。

 

権力が通貨を流通させる

 国内で流通する通貨を定めるには、徴税権力や、国内の決済で特定の通貨を使用させる権力が必要だ。

 通貨を発行することは誰にでもできる。単位を決めて、それでおしまい。だが、その通貨を広く受け入れさせ、通貨として流通させるのは、とても難しい。試してみればその困難さがわかる。「なぜお前が管理する通貨を使わなければならない?俺にその通貨を管理する権利をよこせ!」とか、「おままごとに付き合ってる暇ないんだけど?」などの反応が返ってくることだろう。

 

権力の中でも特に徴税権力が、通貨を定めるときに効果的

 通貨を流通させるための権力の中でも最も重要なのが、徴税権力だと思われる。納税の義務を課すことは、「この国ではこの通貨を決済に使いなさい」と定めるよりも、通貨を流通させる手段として効果的だと思われる。なぜそんなことが言えるのか?私の知る限り、経験的にそうだったからだ。事例は面倒なので紹介しない。ごめんなさい。

 納税の義務を課す方が、決済に利用されているかどうか監視するよりも簡単だから、という雑な説明でよければ用意できるが、実際のところ理由はよくわからない。

 

通貨の流通は、法律と司法の整備と、それを実行する行政の権力によって可能となる

 通貨を流通させるために必要な権力は、徴税権力だけではない。現代国家風に言えば「警察」と「司法」も必要不可欠なのだ。金銭を伴う取引の約束が簡単に破られるようでは、取引の対価に金銭を受け取れないし、受け取る理由も弱い。支払いを強制する決まり(=法律)と強制力(=行政の権力、警察や司法関係など)が、通貨を流通させる原動力になる。

 ちなみに、ここで言う「警察」や「司法」は、国家が運営するものとは限らない。マフィアやギャングのような仕組みの中にも、「警察」や「司法」は存在するし、その成果として、下でも言及するように、地下経済で外貨が流通することを手助けする。

 

サービスの需要とそれに応える供給力が、通貨を流通させる

 サービスの需要に応える供給力が通貨を流通させている。通貨は、決済手段として流通している。通貨の交換自体が目的で流通するのではなく、商品やサービスの取引で生じる債務の決済手段として流通するのだ。なぜ決済手段になりうるかと言えば、そのコミュニティーのみんながその通貨を手に入れる動機があるからだ。その動機の一つが租税かもしれないが、租税以外の動機もありうる。

 

 租税と関係なく通過が流通する例は、実際にある。例えば発展途上国では、米ドルが、(中には禁止されている地域でさえ)貿易と関係なく流通することがある。「米ドルはアメリカ産の商品を買うときに使える。国内の供給が途絶えそうになったら、すぐにアメリカから買おう」と皆が考えれば、皆が米ドルを求める動機になり、やがて通貨として流通する。また、世界に関たる先進国として威張っているアメリカ様も、昔は地下経済でポンドなどの外貨が普通に流通していたらしい。アメリカ国内で生産されていないモノを買うときに、銀行で両替していたら、やましい取引が当局に見つかるからだろうか?

 国内で外貨が流通するなんて、直観的には受け入れがたいかもしれないが、条件次第では現実的な話。そして重要なのは、租税の対象にならない外貨であっても、コミュニティーの皆がそれを欲しがる理由があれば、その外貨は通貨として流通する。そして、商品やサービスの決済手段という需要が、その外貨を流通させている。

 

ビットコインも、サービスの需要とそれに応える供給力を理由に流通した

 ビットコインの流通も、サービスの需要に応える供給力があってこそ、実現した(ビットコインを通貨と呼ぶかどうかは、世間的に見て微妙なラインだ。私はビットコインを通貨とは思っていない)ビットコインは、徴税権力とは無縁だ。それでも一部界隈で流通しているのはなぜなのか。国際決済を安い手数料で素早く行いたいという需要や、為替を利用した投機の需要などに応える形で、両替サービスを供給する取引所が発達したので、ビットコインは国際決済において流通した。取引所が無かったら、(少なくとも両替目的では、)まともに流通しなかっただろう。また、違法行為の需要に応えた商品を販売する人がいるからこそ、ビットコインが違法行為の決済に使われるようにもなった。いずれも、サービスに応える供給能力が、ビットコインを流通させたといえる。

 

石油という需要が、米ドルを基軸通貨たらしめる

 アメリカの軍事力によって強制されている側面は確実にあるが、基軸通貨たるドルが貿易で流通するのも、世界各国の石油への需要とそれに応える産油国の能力に裏付けられた結果だ。ここでも、需要とそれに応える供給力が通貨を流通させた、という構図は変わらない。

 サウジアラビアの通貨やユーロなどで石油取引の決済をしてもいいのでは?なぜ米ドル?と思うかもしれない。私はそう思う。が、実際にドル以外で石油を取引をすると、なぜかその国の悪事が発覚したり戦争になったりするという、悪いジンクスがあるのだ。怖いなー。そんなわけで、各国そのようなジンクスを気にして、米ドルで石油を売り買いしているのだろう。知らんけど。

 

 

為替相場制度と通貨主権と、政府の財政主権の範囲についての考察 

為替相場の固定と高いインフレ率の両立は、慢性的な貿易赤字を誘発する

 固定為替相場制を採用する国は普通インフレ率が高い。仮に、固定為替相場制を採用する任意の国をX国と名付け、X国が自国通貨と米ドルとの為替レートを固定する場合を考える。アメリカのインフレ率とX国のインフレ率を比べて、X国のインフレ率が一貫して高かったとする。一定の購買力を持つ金額のドル――例えば飲料水1Lを買うときと同じ購買力――をX国通貨に両替したとき、X国内で購入できるサービスは、時間の経過と共に少なくなる。X国通貨の購買力が上がりすぎるのだ。アメリカドルから見れば、実質、過剰なX国通貨高だ。緊縮財政でインフレ率を引き下げたり、為替レートの変更をしない限り、X国の貿易収支は慢性的な赤字になる。

 

固定為替相場制の採用⇔財政主権の制限

 固定為替相場制には、その国の政府の財政運営の選択肢を制限するという側面がある。どういうことか?

 為替市場で自国通貨が大量に売り出された場合、中央銀行は為替を維持すべく、大量の自国通貨買いを行うことになる。やがて中央銀行の所有する外貨が底を尽きてしまった場合、固定為替相場は維持できない。したがって、貿易赤字などに伴って為替市場で自国通貨が大量に売られたとき、政府は中央銀行の所有する外貨準備を維持するべく、次の3つの選択を迫られる。

①交換レートの変更。自国通貨の切り下げ

②外貨を借入

③国内の需要を収縮

①を行った場合、中央銀行の外貨準備が実質で増加したような状態になる。ただし、これをやってしまうと、更なる交換レートの変更があるのではないか?と不安になった民間部門が、さらに自国通貨を売って外貨を買うオペレーションを加速する可能性がある。輸入物価が上がるので、国内経済が冷え込む可能性があるし、場合によっては、輸出物価が下がることで輸出先の国との貿易戦争に発展しないとも限らない。

②については、そもそも貸してくれる相手がいるかどうかという問題がある上、返済と利息払いの義務が生じる。外国に借金しておいて返済できませませんとなると、どんな要求をされるか分かったものではない。

③を行う方法は複数あるが、その手法は総じて”緊縮財政”と呼ばれる。国内経済の需要を減らすため、政府が国内の企業に発注する仕事を減らしたり、公務員の給料を減らしたり、増税したりして、国民を貧乏にさせることで、無理やり需要を減らすのだ。国内の需要が減れば、輸出はそのままに輸入が減らせるので貿易黒字になり、為替市場で外貨売り圧力が高まり、中央銀行は外貨準備を減らさなくて済むというオチ。

  また、”固定為替相場制と高いインフレ率は、慢性的な貿易赤字を誘発する”ので、現状の為替を維持するために、緊縮財政を行い国内のインフレ率を低下させる必要に迫られるかもしれない。これも、固定為替相場制を採用するリスクである。

 

 ①~③すべての方法で、その国は不利益を被る可能性が高い。金本位制を採用していた国は、「単純に金で価値を保証しないと誰も受け取らないだろう」という共同幻想ゆえに固定為替相場制を採用したかもしれないが、現在、金本位制とは関係なく特定の通貨との交換レートを守る発展途上国が数多く存在する。なぜ多くの発展途上国は、リスクを負ってでも固定為替相場制を採用するのだろうか?

 

発展途上国が固定為替相場制を採用する理由

 発展途上国とは、国内の生産力が低い国である。需要に対して国内の産業の供給能力が低すぎるあまり、自国通貨を持っていても国産のサービスには限りがある。需要が供給力を上回るため、インフレにもなる。そんな状況下では、税金や罰金を払う分より多くの自国通貨を持つ理由が弱く、みな外貨に両替したがる。外貨でモノやサービスを買うためだ。場合によっては、金融資産の目減りを小さくする目的もあるかもしれない。外貨に両替して外国のサービスを買うことを国民総出で続けると、為替市場で自国通貨の売り圧力が常に強くかかり、自国通貨安に歯止めがかからない。輸入物価が跳ね上がる。国内の供給能力が小さいところで輸入物価が跳ね上がれば、国民まとめて貧困化へまっしぐら。

 そこで、途上国は固定為替相場制を採用する。途上国の中央銀行が、為替市場で自国通貨と外貨を売り買いすることで、一定の為替レートを保つようにするのだ。

 途上国の民間企業や家計は「いつでも同じレートでドルに交換できるなら」ってことで、国内での自国通貨の流通が期待できる。

 加えて、高インフレのX国が為替レートを固定していると、時間とともにX国通貨高に向かうため、外資からX国内への投資も期待される(ここでいう投資とは、金融資産の両替ではない。財やサービスの生産に使われる「資本」をつくるために資金を消費する活動だ)。国内の生産活動を外資に依存すると、国内法で裁きにくかったり、突然撤退されても文句が言えなかったり、必要な規制を適応しにくかったり、様々なリスクを背負うことになる。それでも無いよりマシだということで、外資の投資に頼るということもあるだろう。固定為替相場制を維持しておけば、時間とともに実質X国通貨高に向かうので、外資の投資が実ってその企業に利潤(株式会社だと株主の取り分)が出た時、外貨建てで大きな利益になる。変動為替相場制だと、外貨建てで利益が出る確率が下がる。

外資が外貨をX国通貨に両替

外資がX国通貨を使って投資

外資が資本を使って生産活動し、X国通貨で利潤を得る

外資がX国通貨建て利益を外貨に両替

 

①、④の両替が同じ為替レートの時(=X国通貨の購買力が上がりすぎた、実質X国通貨高状態のとき)、外資は投資費用を上回る収益を上げやすい。 

 

なぜ主権通貨を好むのか、好むべきなのか

 政府の財政主権に注目して議論するときには、自国で流通する通貨の発行権を自国で有していて、変動為替相場制をとる国の通貨のことを、”主権通貨”と呼ぶらしい。ワードセンスがエクセレント!

 固定為替相場制が負うリスクは既に言及した。ここでは、共通通貨や外貨を使用する場合と自国通貨を使用する場合を比べることとする。

 なぜ多くの国が”主権通貨”を求めるのか。ワンフレーズで述べれば、「政府が採用できる政策手段の選択肢を増やすため」だ。

 外貨や共通通貨の利用者は、財政政策において、主権通貨を持つ国には存在しない制限が加わる。どういうことか?

 そもそも、経済成長する国には法則がある。経済成長する国は、インフレ率が上がり過ぎない限りにおいて、当局が通貨を大量に発行(日本だと、国会の決定をもとに財務省が支持し日銀が発行する)し、インフラや技術などに投資しまくっているのだ。社会福祉にも金を使う。投資は生産諸力の基盤となり、その成果として、国家単位で生産力を成長させる。共通通貨や外貨を使用する国では、GDP成長に必要な政府の支出が、公的な役割を負わない国債の債権者の気分にゆだねられるのだ。

 共通通貨や外貨を使用する国の政府は、新規国債を買う人がいる範囲内でのみ財政赤字が可能だ。新規国債を買う人がいないときは、(表面)金利を上げて買い手を募るだろうが、金利の引き上げで買い手を探すのにも限界はある。(表面)金利がどんなに高くても、返済や利払いの期待がゼロと思われてしまうと、だれも国債を買わない。国債を買う人がいない状況下で政府が支出を増やすためには、税収を上げる必要がある。税収を増やすと、その分民間の経済活動が鈍る。民需を抑制させずに政府支出を増やすには、経常収支(またの名を対外収支)を黒字にするしかない。それも、国家予算規模でだ。

 ある国の経常収支が黒字であれば、その分、経常収支を赤字にする国が必要だ。特定の国の政府が収入よりも支出を増やしてGDP成長を図ったとき、同じ通貨を流通させる国のいずれかが、「税収を増やすか、支出を減らすか、デフォルト宣言と同時に債権者からの要求に応えるか」の3択を迫られることとなる。税収を増やせば民間企業や家計の可処分所得は減るので、高確率で消費の増加を妨げることになる。未来のインフラを作るための財政支出を減らせば、GDP成長の機会損失が起こる。デフォルトを宣言した場合、債権者に何を要求されるか分からない。もしも自国で発行する通貨を流通させていれば、支出を減らす必要もなく、税収を増やす必要もなく、デフォルト宣言する必要も無いというのに。

 主権通貨を使用する国と比べ、共通通貨や外貨を流通させる国の国民は、財政主権を制限されるのだ。まあ、共通通貨の導入のそもそもの目的の一つが、国民から財政主権を奪うことなのだろう。

 

国債の「担保」とは、国内の生産力と権力への期待である

 「担保」という言葉を使っているのは、他に適切な言葉を思いつかなかったから。情けない。

 「担保」とは何か。それは、将来にわたって需要を保証する何かのことだ。需要があるなら換金できる。国債の担保とは、「将来にわたって国債を欲しがる経済主体が存在する見込」のことである。

 なぜ国債を欲しがるのか?それは、利回りをによる利益を得たいから。ではどんな時に誰も国債を欲しがらなくなるのか?通貨が流通しなくなりそうな時や、利払いや元本の返済が期待できなくなった時である。例えば、日本円建ての国債であれば、「日本円が近々流通しなくなるかもしれない」「税金の支払いに日本円が使えなくなるかもしれない」などと皆が思うようになると、誰も日本円建て国債を欲しがらなくなるし、「政府も日銀も満期を迎えた国債を償還・借換えしない」と思われた場合も国債を欲しがる人はいなくなる。

 簿記がわかる方は、こちらの記事で、「日本のような主権通貨を持つ先進国では、よほどのことが無い限り、満期を迎えた国債は借換えされる」ことを理解していただけると思う。

 通貨が流通するのは、上記の通り、「徴税・警察・司法などの権力」と「サービスの需要とそれに応える供給力」のおかげだ。先進国とは、その両方が強固な国と言っていい。一方で発展途上国は、マフィアの金には手を付けられないといった風に権力が弱かったり、国民が使う生活必需品の多くを自国で生産できなかったりする。

 

 

為替相場制度と政府の財政主権の範囲について、箇条書きでまとめ

・変動為替相場制の場合

 政策余地が最も大きい。政府は国内の供給能力が許す限り何でもできる。自国通貨建て国債がデフォルトするリスクは、政策当局が発狂しない限り無い。外貨建て国債を発行する理由もない。供給力不足でモノやサービスが不足すると、多くの場合インフレ率が上昇し、輸入が増えるので通貨安圧力の一つになる。

 

・固定為替相場制の場合

 政治的な理由を無視すれば、政府は自国通貨建ての支払い能力に制限がなく、国内の供給能力が許す限り何でもできる。しかし、為替レートの維持のために輸入を減らしたい場合、需要を縮小させるための政策を選択せざるを得ないことが多い。為替レートの維持が目的で外貨建て国債を発行した場合や、中央銀行の外貨準備が底をついて固定レートで通貨交換する約束が果たせなくなった場合は、債権者の気分次第で強制的にデフォルトする可能性がある。国家権力が及ばない外国人の債権者が相手の場合、デフォルトを理由に土地なり権利なり何かしらを奪われる場合もある。

 ちなみに、自国通貨建て国債にもかかわらずデフォルトした、とやり玉に挙げられるのがロシアのルーブル建て国債だ。ルーブル建て国債のデフォルトの場合、その原因は、ロシア政府にルーブルを支払う能力がなかったのではなく、「ロシアの生産力の乏しさに見合わない国内の消費活動」によるものである。詳しくは脚注*5にて。

 

・共通通貨を利用している場合

 政府は税収と新規国債の買い手がいる範囲内で支出できる。政府の財政収支赤字が続いた場合、債権者の気分次第でデフォルトする。最も緊縮財政を要求されやすい。

 

 

インフラこそが、国家権力を支え、主権通貨の流通を可能にする

 国家が権力を行使するには、インフラの整備が必要となる。同じ教育を施し、おなじメディアや言語を共有し、同じ道路や水道や電気を共有する、そういったインフラなしでは、役所も軍隊も機能しない。国家権力はインフラによって維持されている側面が強い。便利だから利用しているという感覚でいても、依存していることに変わりはない。支配の基本は依存させることだ。便利を提供することこそ、権力の源である。

 インフラの整備は自国通貨を流通させるためにも必要だ。通貨の流通が国家権力に支えられていることに加え、需要とそれに応える供給力が通貨を流通させるので、インフラが整えば整うほど、自国通貨が国内で流通する理由になる。需要とそれに応える供給力が通貨を流通させる。

 インフラが国家権力を支え、財政政策を通じて国家権力がインフラを支える、というループ構図がある。ループがより強固になっていくにつれ、財政政策の選択肢が増える。ループがより強固になるにつれ、インフラ以外の産業の供給能力も発展する。

 インフラを整備し、国家権力を強化し、供給能力を強化する過程で通貨制度の選択肢は、以下のように変遷する。

①よその先進国の通貨やユーロのような共通通貨を使うことを余儀なくされている段階

②固定為替相場制の下、国内では自国通貨とよその通貨が同時に流通する段階。税金や罰金や自国で生産できるものは自国通貨で、輸入品などの買い物は国内でも外貨で行われる。普通、固定為替相場制。固定為替相場を維持するために、外貨建て国債を発行したり緊縮財政を実行したりすることもある。

③固定為替相場制の下、国内ではほとんど自国通貨を流通させる段階。固定為替相場を維持するために、外貨建て国債を発行したり緊縮財政を実行したり。

④変動為替相場制の下、国内では自国通貨を流通させる段階。普通、国債を発行するときは自国通貨建て。 

 

 

主な参考書籍

 

 

注釈

*1:ロシア?ソ連?が計画経済を実行していた時代、一度普及した通貨の利用が、政策当局に制限されていたこともあり、物々交換が広がった時代があった、らしい。

*2:識字率が上がったことと同義ではない。文字が読めない人でも、文字による記録を委託できれば、ここでは「文字や数字が民間に降りてきた」ものとして扱う。

*3:ジョン・ロックが代表例

*4:偽札づくりは、殺人以上に重い罪に問われることが多い。通貨発行権は独占されていなければ、国家転覆につながる。「自由に通貨を発行でき、債務の返済が必要ない」という立場は、通貨を発行するだけで人を雇い、財を生産させることができる、とても強力な権力を伴う。

*5:

ロシアの銀行は、ルーブル建て国債を外国人が買いやすいように、「一定のレートで米ドルとルーブルを交換する」という約束を結びつつ、ルーブル建て国債を売っていたらしい。外国人は、変動為替に移行してルーブル安になって損するリスクを軽減できる。ルーブル建て国債は、その少なくない割合を外国人が持っていたようだ。それから、ロシア政府は大量の外貨建て債務を負っていた。ドルを借りないと為替レートを維持できなかったという側面もあるとかないとか。

そんな中、ロシアの中央銀行は米ドル準備の減少に直面し、為替レートの引き下げを余儀なくされ、変動為替相場制に移行した。

ルーブル建て国債の償還期限が来て、ルーブル建て国債を大量に所有していた外国人にルーブルを支払うと、その大量のルーブルが為替市場で売られて米ドルが買われ、さらにルーブル安になることが予想された。ルーブル安を放っておいたら輸入物価があまりにも上昇してしまう。

さらには、当時のロシア政府は外貨建ての債務を大量に背負っていた。ルーブル安になると外貨建て債務の返済が難しくなる。米ドルを買うときに、より多くのルーブルを売ることを迫られるからだ。外貨建て債務の返済のために大量のルーブルを為替市場で売ったりしたら、ますますルーブル安になる。ますます輸入物価が引きあがる。自国の生産力があまり大きくなかったロシアにとって、輸入物価の上昇は国内の物価の上昇を意味する。

急激で大幅なルーブル安よりはデフォルトの方がマシだ、という政治判断からであろう、ルーブル建て国債は、自国通貨建て国債であるにもかかわらずデフォルト宣言された。

国内で消費するサービスを輸入に依存し過ぎていたために、急激なルーブル安を嫌ったのだろう。急激なルーブル安の可能性を予測したのは、政府が外貨建て債務を大量に保有していて、その返済に伴うルーブル安の進行の可能性があったことも原因の一つだ。

 

そもそも国内の生産力が輸入に頼らないほど十分であれば、固定為替相場制を採用する理由が無いし、為替レートの維持のために外貨建てで債務を負う必要は無い。ロシア国内の生産力の欠如が、ルーブル建て国債債務不履行の根本的な原因だ。

ルーブル建て国債を外国人が大量に持っていたのは、利回りの良い金利商品を求める外国人が結構沢山いて、かつ、外国人が保有するルーブル建て国債の量をロシア政府が厳しく制限しなかったから、と思われる。また、別の見方をすると、ルーブル建て国債を新規発行することによって、一時的には為替レートをルーブル高に持っていけるので、為替レート維持のためにその場しのぎでルーブル建て国債を発行しまくっていた、という可能性もあるかもしれない。知らんけど。

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「ロシア政府がルーブル建て国債を発行して為替操作する」の図